その602

昨日はどこにもないといった意味で無となった。時間軸上に存在する無とは、それがかつてあったことで現在において無となる。昨日があったから現在があるとしても、昨日はもうどこにもない。無となった。りんごが食べられて消滅したように、昨日も時間によっ…

その601

メッゾの領域にあるりんごは、その始まりをひとまず、そのりんごを構成する粒子にあるとする。さて、りんごを構成する粒子は、その始まりがどこにあるか。りんごを構成する粒子はいやおうなく時間のうちにある。時間をわずかに経過するか。長大な時間を経過…

その600

世界を支配するとはどういう意味か。それがなんでもそれがあればそれは世界への影響となる。しかし、影響を与えるものは影響を受け取っている。すべては相互反応のはずだ。であれば、完全に何かを支配できる主体の実在とは何か。どんな意味を持っているのか…

その599

拡散しようとするものが閉ざされていくことで結果的に生じるのが構造ではないか。拡散だけでは粒子の浮遊のみが現象として起こる。しかし、実際にはそうではない。世界はそのマクロでもミクロでもメッゾにおいてであっても、その構造を持つ。ミクロの構造が…

その598

ある風は一塊にないか。むろん、その風はその風の外部の影響下にあるが、それは一個のりんごがそこに実在するためにその外部からの影響下にあることと同じ意味である。ある風がどこまで吹いているか、その風にはその全体があるのかどうかはその風の流れを追…

その597

事それ自体が実際に物質としてあるのかどうか。物はあるが、物が変化していくのは事によるとしても、事それ自体が単独で実在するのかどうか。たとえば、風が吹く事それ自体は実在するのかどうか。確かに風邪は吹いている。それであれば風が吹くことは実在し…

その596

際限がないといったとき、それは無限を意味するが、無限それ自体が実在した時点で、あらゆる可能性が現実に実在することにならないか。頭の中にあるものごとすべてが実在しなければ、無限とはならないのではないか。 あるものだけがある。それが世界だ。頭の…

その595

世界はそのすべてが具体的であり、そのすべてが何かとしてある。何かとしてある世界は一通りしかない。一通りの世界であるが故にその具体がある。具体的な何かそのすべてが詰め込まれているのが世界であり、何が詰め込まれているのか、その全貌は明らかでは…

その594

確かなことが事実であるとき、事実は言葉だけではない。言葉としての事実と、言葉ではない事実がある。認識内にある何かはすべてが言葉ではない。なんとなく感じていたり、思っていたりすることがある。それがそのように思われていることは事実であり、それ…

その593

言語状態と現実は常に同一ではない。言語状態だけがあって、現実はその状態にないとき、言語状態は無だ。ある状況に対してとった言語状態がその状態と合致するのではないとき、その言語状態はたとえば小説などの創作に用いられ、それ相応の現実となる。人間…

その592

意味はすべてが現実に即している。言葉の意味も現実によって紡がれる。現実がそのようにあることで言葉の意味がそのように紡がれる。言葉がある状態にあっても、現実がそのようになければ、その言葉の状態は無だ。言葉はその限りでいかようにもその状態をと…

その591

ある断定に対して、真逆の事実がある。そういったことは起こる。ある断定はそれ自体としてその時点で完全な無となる。意味を持たない。言葉には意味があるが、それが示すことそれ自体が現実に起こるかどうか。起こらない時、いや、永遠に起こらないとき、そ…

その590

言葉で、あり得ることと、あり得ないことと述べることにどれほどの意味があるか。あり得ないと言葉にしても、起こりうることはあり得る。起こった時点で、あり得ないといった言葉は完全に無となる。言葉はその意味が無となる可能性を秘めている。

その589

あるようにある世界は思考され、あることないことがこの世界に実在する。あるようにあるだけの世界をあるようにだけ考えることができるわけではない。あり得ないというか、絶対に違うこともわれわれは思考する。思考している時点ではそれが正しいかどうか分…

その588

世界で起こっている出来事のすべてが世界におけるプロセスの一端であり、何かが特別というのではないとき、我々の思考もまた特別ではなく、世界がどのようにあるか、その原因に一端となる。あくまでも一端でしかない。思考がいかにあるか、それは世界がいか…

その587

世界にはその全体がある。それ故に、何かが具体的にある。世界の全体もそれ自体として具体的だ。可能性はあくまでも可能性であって、思考されていることに過ぎない。そのうちのいずれかが世界の具体となって現れるわけだが、思考したが故に、そのような世界…

その586

純粋な世界に不純な私たちがいる。世界それ自体は純粋だ。それは不純な我々を含んだうえでも純粋だ。我々の不純さは世界の純粋さに包摂される。のであれば、つまり、あらゆる不純さは世界の純粋さに包摂されるのではないか。

その585

思考可能性と現実は完全な相関にはない。現実はまず先に、起こっていることが作り出している世界の総体であり、起こっていることのうちに我々の思考があり、その思考によって現実以上の何かを現実と捉えようとすることがある。我々の思考がなく、他にも思考…

その584

思考が真実と直結した時点で止まればいいのだが、その先を考えてしまう。可能性が他にも考えられると。そうした在り方から脱却できない限り、人間はほんとうの意味で真実に確かにたどり着くことはできない。間違いないと直感したとしても、間違っていること…

その583

分からなさ、可能性の残存。それこそがまさに永劫普遍の真理ではないか。何かがいかにあるか、それは時が経てば変わるかもしれない。その可能性がある。かりに変わらないとしても、変わる可能性があること、あったことを認識主体である我々は考えざるを得な…

その582

そのほとんどを知らないでいても、世界はそのすべてというすべてが法則によって出来上がっている。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。そのいずれであるか、それは事実として分からない。すべてが法則出来上がっていると捉えたとしても、そうで…

その581

リズムが崩壊したとき、世界は完全なるカオスとなりかねない。むろん、そうなっても、それは世界の自然だ。起こることが起こるのであり、起こって欲しいことが起こるのではないし、起こって欲しくないことがそのまま起こらないのではない。 世界はそのすべて…

その580

見えずとも確かにその全体はある。何であっても、その全体がある。すべては個別に具体的なその全体としてある。実在の具体性はどの次元で捉えるかで異なる。ミクロにおける具体性はメッゾにおける具体性、たとえば、それを構成する微粒子の具体性の集積とし…

その579

いっさいの視点を持つことなく、何かを見ることはできない。何かはその全体としてあるようにあるが、そのありのままをすべて見ることはできない。何かの全体は見えない。

その578

動いている物を一瞬で完全に捉えるのに、どこかに視点を定めても、捉えることはできない。どこかに定まった視点からはその視点からの主観が発生する。

その577

世界は具体的にさまざまな物で構成され、あるいは表現されている。世界を完全に俯瞰して眺めるなら、世界はさまざまな物で表現されているのを眺めることになる。現状ではいま自分がいるところからの眺めしかない。画像や映像があるにはあるが、それは本来の…

その576

何かが何か単独で実在することはない。それ故、何かはつねに複雑な何かである。複雑な何かはなぜ何かといった単独性にあるのか。たとえばりんごはそのりんごとして複雑に実在する。りんごであるといった事実は単純だ。すべてのりんごはりんごであり、それは…

その575

通りを歩いているとき、一瞬で終わることはない。通りを歩いている間中、ずっとその時間が続き、その通りもまた続いてある。あるいは、歩いてないとき、その通りはその通りとしてあり続ける。その通りはその通りがある空間にとっての本質なのかどうか。通り…

その574

何かが具体的にあるためには、何らかの姿になければならない。何らかの姿にあるためには、何らかの構造を持つしかないのではないか。姿だけあって構造を持たない何か。かりにそのような物があれば、一瞬一瞬でその姿は異なっている。それはりんごがりんごと…

その573

構造を持たない点が仮に実在するなら、その内部はない。内部のない点の実在はその点を捉えた瞬間に、それだけですべてが見える。正確には見た角度から見える状態だけが見えるが、その見た目はそれ自体の剥き出しのあり様だ。内側に隠された部分はない。一点…