その293

人間がいない世界では何が起こっていたか、起こることになるか。人間がいることが自然を奪っているだろうか。人間がいない世界はそのすべてが自然だろうか。人間の活動は自然ではないのか。人間の活動だけが特別で、自然から逸脱しているのか。逸脱できるだ…

その292

自然ではないことが起こっているのか。起こっているなら、それは完全に自然ではないのか。自然ではない何かがどのようにして実在可能か。存在はそれが何であっても即自然ではないか。人間が生み出した現象はその始まりが自然であり、その帰結もまた自然では…

その291

力は計測できるものとそうでないものに別れる。それはある。確かにあるが、認識外にあるとき、その計測はされない。計測されないからといっても、それが力として実在する限り、その力を認識不能の認識主体へと働きかける。関係のあることを知らない。いかに…

その290

そこことについては何も知らない。本当に知らない。しかし、そのこととは関係しているかもしれないし、関係していることで生きていることができている可能性がある。まったく知らないことに支えられて生きているとき、自分で判断して生きている感覚が薄まっ…

その289

認識外にも現実がある。完全に知らないことがいくらでもある。何を知っていないかをまるっきし知らない。あることについて知らないのではない。一度たりとも意識にのぼったことのないことが現実として存在している。理解したか、していないか以前の話である…

その288

意識のうちにないことは知っていない。知っていないからといっても、現実ではないのではない。存在している物ごとのすべてが現実である。知っていることだけではない。起こっていることのすべてが現実である。

その287

意識されるか、されないかで、本来の持っているはずの意味が変わってくる。意識されるか、されないかといった条件付けがある。意識されることで持つことになる意味は、意識せずとも、存在の姿においては、そのような意味を持っていると考えられる。もともと…

その286

存在の流れの中にあるはずの何もが、それだけがあるという状況を呈することはない。言葉であってもそうだ。ある条件付けがなされたうえでのその言葉である。条件付けとは前提のことである。前提条件がまずあったうえでのその言葉であり、同じ言葉でもその意…

その285

事実であるが真実ではないことがあり、真実だったことが真実ではなくなることがあるとき、真実は存在しないかもしれないし、永遠普遍の真実がないだけで、正しいことは正しく実在しているが、それがただ続かないこともある。正しければ真実であり、正しいか…

その284

事実とは起こったことであり、たとえば、何かしら思ったことでもある。思うのは自由で何を思ってもよい。思ったことのすべてが真実というのではない。つまり、事実はすべて真実ではないのであり、真実とはまさに本当のことではならないのであって、それは存…

その283

存在していることがあって、それがどうなっているかを考えるわけである。どうなっているか、それを認識することで何かを知っている。ただそれでも、知りたいことや、知ろうとしたことが、欲望にそった方法でなされるとき、それは感覚的な肯定にあるが、それ…

その282

個物としての関係性がある。個物とは関係性のことである。関係性のあり方がその個物のあり方を決める。個物がその関係性を持つことなく実在することはない。一個の個物があるように、一個の関係性がある。関係性はそれ自体がその閉鎖系であるはずだ。でない…

その281

関係性の喪失。いっさい何とも関わりを持つことなく実在する何かは実在しない。何かはつねに何かとの関わりの上にある。ではなぜ、何かがそれだけであると考えるのか。それは私たちが認識しようとするからではないか。認識しようとすることで何かしらにフォ…

その280

無は一切の記述を受け付けない。何もないことを言葉で捉えることはできない。何もないことがどういうことなのか、それは説明することではない。ひたすらに何もない。何もないといえば、何かがあることの裏返しになる。いや、何もない。ただそれだけのことか…

その279

なぜ動くのか。なぜ動かないのではなく、動くのか。そこにあるものがそこにあるだけで動いているのは、存在がそれ自体、運動する物質であるからだ。うごかないものはない。うごかないものは存在し得ない。動くからあるのではなく、動くためのエネルギーが存…

その278

繰り返されることがある一方で、何も繰り返されることはないともいうことができる。どちらも相応の正しさがあり、非反復性のうちに反復がある状況とは何か。繰り返されることはないといったとき、厳密には、いかなる反復もその細部においては同一ではないこ…

その277

1分前の世界に触れることはできない。今触れているコップは今あるコップであり、つねに今あるコップを持っている。10秒前のコップではない。今あるコップしか手に持つことはできない。持っているコップは昨日もあった。そのコップに関わった昨日の全てがその…

その276

存在それ自体において、今を意味する地点だけが実在するだけでは、存在それ自体が実在しないと考えられる。存在それ自体はその時間軸といかに関わり合って実在しているのか。時間軸の存在がいかにあるのか。今だけがあるようでは、存在は存在として実在し得…

その275

一本の道があり、そのうえを歩く人がいるとして、歩く人はその歩いている場において、その現在にある。しかし、現在とは、その人にとってのことばかりではない。現在とはどこまでを含むのか。時空の歪みから、道のあらゆる地点において、その今がいつなのか…

その274

何があるのか。あるものはすべてある。ないものはない。なくともあるようになる。あるものもなくなる。あるかないか。認識内において、ある、や、ない、とする場合、領域が設定された話になる。認識内においてあるのであり、ないのである。それは認識内存在…

その273

エネルギーとは、それ自体であり、かつ、その外部への働きかけである。エネルギーはそれ自体が運動であるが、かつ、運動の原因にもなる。エネルギーだけがあっても、それは動かない可能性がある。あるエネルギーはそれが反応することで、エネルギーの役割を…

その272

言葉になっていなくとも、起こっていることがある。あるというか、ほぼすべてが言葉になることなく、起こっている。起こっている何かのなかに言葉がある。言葉があるから起こっているのではないのは言うまでもない。起こっていることが起こっている中で、そ…

その271

どこにもない何か。それが可能性として考えられたとき、頭の中にそれはある。頭のなかにある状況において、それが外部化されないことがある。言葉にならずとも、考えられた痕跡が頭のなかにある可能性がある。はっきりとしないが、あるかもしれないものがあ…

その270

無限とは何か。認識を超えた実在でも、その有限にある可能性がある。認識の外がどうなっているか、わからないとき、存在はその無限なのか有限なのかはっきりとさせることができない。しかし、無限といった観念からイメージされることが実在であるとは考え難…

その269

関係のない何かがある。存在する何もがその関連にあるのではないのではないか。何かに焦点を絞ったとき、その何かに関与していることがいくつもあるのだろうが、存在の地平には、関わり合っている状況と関わり合っていない状況が同時にあるのではないか。あ…

その268

存在はカオスに存在するわけではないのではないか。私たちの認識においてカオスといった現象が起こるのではないか。存在はその形式にある。現在は少なくともそうしたあり方にある。形式を失った存在の仕方がカオスである。何かしらがそのようにあるとき、そ…

その267

運動するもののうちに結論を見出すことは可能か。それが何であれ、それはその移ろいにある。空っていく何かがどうであるか、その結論は出せないのではないか。どの瞬間かを取り出すことで、その結論に変えることはできない。移ろいの先端がそれではあるのか…

その266

何かがある。それは単一にあることはできない。単一にあるものがあるはずがない。単一であるとき、それはそれ以上動こうとしない。動く何かはその複合にある。それだけがあるのではなく、それがあるためにはその他がある。その他とそれがある。それゆえに、…

その265

現実はどれほど言葉によって決定されるのか。言葉が確かに現実を捉え、その意味を言語空間のなかに表現する。それをやっているのは人間であり、人間はみずからが生み出す言語空間との関わりにある。関わりにあるというよりか、その存在自体が言語空間内にお…

その264

物質として存在するものがそれぞれに分かれているとき、その明確な境目はどのようにあるのか。りんごとバナナは確かに違うが、私たちとってはそれは同一の果物といった部類になると認識される。その認識とは普遍的なのか。普遍とは何か。私たちにとって普遍…