その515

 世界には外部はない。ただあるようにあるのが世界だろうが、そのように世界を認識することはできない。世界とは存在がそのようにあるがままあることを意味したとしても、そのような世界は私たちの認識内にはない。それなのになぜ私たちは世界を認識できるのか。世界からなぜ部分だけ取り出して認識することができるのか。世界から取り出した部分は明らかに世界の断片であるはずで、それは確かにそのようにあるのだろう。しかし、私たちが持つことになった認識が部分的成立をするのは、私たちの認識における合理性がその原因ではないか。合理性は部分的でしかない。部分的であることは合理的である。論理的に閉じていないことは認識として成立しない。合理的だから認識できる。では、存在がそのようにあることがすべて私たちにとって合理的だろうか。私たちにとって不合理であることが、そのようにあることは考えられる。考えられるが、認識の仕様がないのではないか。認識され得ない、原理的に不可能な存在のあり方がある。それは認識されないがそのようにある。では、私たちが認識できていることは、その他と関係を一切もつことのないことのみを認識しているのだろうか。そうに違いない。認識外で起こっている現象と繋がっていないことのみが私たちの合理性によって認識されているのではないか。認識外で起こっている現象と何かしら繋がりがあることは、私たちにとって合理的に認識できないのではないか。