その576

 何かが何か単独で実在することはない。それ故、何かはつねに複雑な何かである。複雑な何かはなぜ何かといった単独性にあるのか。たとえばりんごはそのりんごとして複雑に実在する。りんごであるといった事実は単純だ。すべてのりんごはりんごであり、それは単純だ。単純に何かがある。それはそれでしかない。それでしかないそれは、それでしかないといった意味で単独に実在する。それをりんごといった語で単一に呼ぶことがなくとも、つまり、言葉の一切がなくとも、りんごはそれ自体として確かに実在する。この世界の流れのうちで、あるりんごがあるりんごとしてある。りんごがりんごであることに言葉はいらない。我々の認識もいらない。認識されようとされまいと、りんごはりんごとしてこの世界に君臨する。疑いようのない姿でそれはある。世界はいくつもに分かれている。ではなぜりんごはその境界をもつのか。何かがりんごであるか、りんごではないかについては、明確にその解が実在する。ある個体がそのようにあることの不思議。さまざまな個体は認識超越的具体だ。認識をしようとしまいと関係なく、何かがりんごであるといった事実がこの世界にある。ある空間としてのりんごでもある。ある空間がりんごとして表現されるのだ。