その15

 物質としてのりんごがそこにあれば、方時の停止もない。言葉のりんごは動くことがない。言葉のりんごの意味は誰かに触れることで動く。そこにただあるだけでは動かない。動きを持たないときの言葉のりんごは、意味をもつ誰かを携えない状況にある。ある時間のあいだ、周囲との関係を持たない言葉のりんごは虚無である。言葉の意味は意味を持った誰かにより見出される。それがあるだけでは意味を持たないのが言葉のりんごであり、石が路上に転がっていること以上に意味のない時間帯にあるのが、言葉のりんごである。

 時空間にある限り、何もが何らかの意味をもつ。虚無は虚無的な意味をもつ。虚無とは外観はあっても中身がないことを意味する。言葉はそれがあれば姿をもつが、中身が生じるためには意味を持った誰かを必要とする。りんごそのものはりんごと呼ばれなくても、りんごの姿である。言葉のりんごはりんごと記されることが必然というのではない。物の名前は純粋にそのものから生み出されたのではない。外部からとってつけたようなものではないか。りんごそのものと言葉のりんごには距離がある。ことばのりんごが即、りんごというのではない。自然の流れで出来上がった呼び名でもない。あらゆる呼び名は偶発的なのではないか。意味のつながりはあるが、それでなければならなかったという必然はない。