その16

 何もが情報空間にある。言葉になったことだけが情報ではない。路上に咲く花も然り、空を流れる雲のあり様も然り。存在はすべてが情報である。私たちの精神を持ち出すと、存在しないものも存在しうる。想像力は実在し、あらゆる空想を含む。私たちが存在する限り、タンジブルでないものも実在するのがこの世界である。実際に、タンジブルか否かの判断はむずかしい。実在はしないが、描かれたカッパには触れ得ることはできる。空想上のものの実存性は実質的にその不在にある。カッパは存在するのかしないのかは、それぞれの条件付けをもとに事実となる。

 空想世界の実在を認める限り、カッパは実在である。空想世界は存在の一種である。あるかないかとなれば、ある。では、目の前にほんもののカッパを連れてこれるかとなれば、不可能でしかない。しかし、ほんもののカッパがどこにもいないと言い切れるか。その実存が空想世界に依拠したうえでの存在であるカッパは描かれたカッパがほんものではないか。カッパとは、ただそういったもので、それが現実ではないか。

 ビルがある。ビルはタンジブルな存在である。しかし、ビルは人間の精神が産んだものである。かっぱの置物と同じではないか。かっぱの置物はかっぱの実存と変わりなく、カッパはタンジブルである。カッパはそれが実際に川にいたとかいないとかといった逸話とともに語られるところにその難解さがある。いたかもしれない可能性がゼロでない限り、カッパの置物がカッパかどうかの判断がむずかしくなる。ビルならそれがあればいい。ビルを条件づける物語が難解でない分、ビルの実存はカッパよりか容易ではないか。人間の精神が産んだ物は多くあり、それぞれがそれぞれの物語をもつ。話のなかでできあがったものには、複雑な条件をもつものとそうでないものがある。単に、私たちは認識と闘っている。いかに認識すればいいのかが現実に潜む鍵である。認識の仕方を複雑にしているのは私たちの精神である。ただあるだけのはずの万物を認識しようとしたときに、精神の複雑さがある。精神が複雑なのか、認識対象が複雑なのか、私たちが複雑にしか認識できないのか。認識の方法が単純化されることはあるのか。整理しきれないのが万物なのか。私たちの精神を超えたところにあるのが世界なのか。