その169

 存在とは物質である以前に意味のことであり、意味が姿を変えたのが、物質ではないか。物質であることそれ自体は意味により構築されている。意味を持たない物質は存在しないし、意味を持たない存在はない。在るからには意味がある。無いことにも意味はある。何かが無いことも意味を持つとき、意味は存在のうちに無いことも含むのか。しかしそれはどこにあるのか。存在は意味の広がりのうちにある。意味の広がりは私たちの精神も含む。私たちの精神はいかなるものか。どのように実在するのか。言葉の実在は精神の実在を示すのではないか。言葉が精神のうちにある。存在の流れに沿わない精神のうちにある言葉も存在の流れに沿わない。いや、沿わないときと、沿うときがある。精神のうちをめぐる言葉が意識のうちに浮上していくるとき、そのできごとは存在との関連で考えた時、必然か。計り知れない関係性のうちに存在があるとしたとき、起こるべくして起こっていることのうちに言葉の意識への浮上もあるのか。なぜそうなったかについて理解されないことを偶然の結果と呼ぶことになるが、偶然と考えられたのは、因果について把握しきれなかったことが原因なのではないか。偶然が偶然であることの証明は可能なのか。解は存在における意味の広がりのあり方において実在する。前提としてどこまでわたしたちが存在のあり方を認識した上で偶然や必然の言葉を用いて認識しているかが問われている。

 真っ先にあるのは前提としての存在のあり方だ。存在のあり方をどこまで具に知っていくかが問われているのであり、独断する意味はない。なされた独断は人間的なる実情のおける完全なる閉鎖系において意味を持つが、事実そう考えられたことは疑いようのないことだが、それが存在のあり方と照らし合わされたとき、真であるか疑であるか。精神における思考内容はその成否に関わらずすべてが真で、思ったことはそれらひとつずつが真であるが、存在とのあり方との整合性について考えた時、真か疑かの判断はかなりの難解さにある。真が真であることを証明するためには存在のあり方についての把握が子細になされないといけない。どこまでその信憑性があるのか。真が真であるための証明は運動であり、その終わりはあるのか。私たちの認識の果てには間違いようのない事実が完璧な姿であるはずだが、その完璧さそのものをまるのまま受け止めること自体がまず不可能なのではないか。どれが完璧さなのか。完璧だと思ったことが必ずしも完璧であるのではない。完璧だと思っただけで、事実はそうではない可能性がつねにある。存在は完璧にあるが、そのことを知るための完璧な認識が実在しないのではないか。つまり、存在に対する私たちの認識は、対象とする存在とかけ離れているのではないか。その距離がゼロになることはあるのか。存在そのものを認識することはできるのか。