その589

 何一つない瞬間を知覚する主体はいかなる主体であっても実在しない。無とはあらゆる主体の不在を意味する。あるいは、まったく別の意味で、いや別次元で、無の実在は、無という主体の実在だ。無となった世界には何もないが唯一あるのが無という主体だ。この際の主体といった言葉の意味は、通常で用いられる有の側の論理とはまったく関係がない。次元の違う話として、無である世界における無それ自体は無といった主体性を持っている。何一つないその状況において実在し得ない主体が、完全なる無の世界には無といった主体が実在する。それはしかし、いや、そのような事実はやはり有の側からの認識となる。無の側からの認識を獲得することができうるとは思えない。何かがある状況からの認識において、完全なる無は実在しない。何かの欠落における無は実在するが、世界のすべてにおける無は有の側から認識できない。認識主体ゼロの無の世界には何もないが故に、認識主体ゼロの世界が実在するかどうか、永遠に判別できない。世界を超えて主体があるなら、絶対的な無の実在を俯瞰して知ることができるかもしれないが、やはりそれだと無ではない。無はあらゆる可能性を否定する。すべてを否定したうえで無は実在する。