その410

 永遠に無である何かとは、絶対に存在しない何かとなるが、その絶対が永遠のものかどうか。永遠かどうかは誰にも分からない。永遠を生きることのできる誰かがいるわけでもなく、誰かというのではなく、なんであっても、永遠を経験することはできない。つねに次があるかどうか、それは起こってみないことには明らかにならない。あるいは、何かしらが起こるなら世界は存在することになる。何も起こらなくなった世界は存在として、何一つもない。何かがあれば何かが起こる。何もなければ何も起こらない。永遠とは、何かがあることを前提とした考えであり、永遠に何かが起こりさえすれば、世界は永遠にあることになるが、何かが起こったかどうかは、起こってみないことには明らかにならない。仮に無となった世界で何も起こらないことをどのようにして認識するのか。無の世界においては当然、何もないのだから、何もないことを知るものはいない。有の側において、世界があることでそこに認識主体が実在し、世界があることを知る。認識主体があるから世界があるのではない。世界があるなら何が実在しようがしまいが世界がある。何かがわずかでもあればそれは世界ではないか。あまりに小さいからや、あまりに大きいからそれは世界ではないということはない。何かがあって、何かが起こっていれば、それ自体は世界のできごとである。それが永遠に続くかどうか、それは時間が経過しないと明らかにならない。時間の経過とは何か。物質の運動のよりもたらされる変化を捉えた何かではないか。存在を具現化する力が時間かもしれない。時間の流れさえあれば、何かがあり、動いている。時間の流れがなくなったとき、世界は無である。永遠に時間が流れるのかどうか、それを観測することのできる誰かはいないし、それがなんであっても、一瞬先のことがどうなるか、起こってみないことには明らかにならないことから、永遠に時間が流れるかどうかを判別することのできる何かは実在し得ない。存在する物質よりかごくわずかに先んじて実在するのが時間ではないか。万物に先んじて実在するなら、そういった時間とは何か。