その580

 何かがそのようにある、そのことが実在するのは我々の認識内においてであり、何かがそのようにあるのは、そのものだ。むろん、そのものはそのものだが、そのものではない。そのものの外部との関係性のうえでそのものとして実在する。そのものの変化はそのものだけが原因ではない。そのものの変化がそのものにおける原因によるとき、その原因と同時にそのものの変化の原因がそのものの外部にある。

 そのものがあるその原因の内部性と外部性は同時だ。なぜりんごがそのようにあるのか、その原因は確かにりんごにある。りんごがりんごなのはりんごだからだが、そのりんごがいまそのようなりんごなのはそのようになる環境にあるからだ。むろん、りんごに適した環境があっても、そこにりんごの根底的な原因がなければ、りんごは実在しない。りんごに適した環境のうちに一切のりんごがないこともありうる。りんごに適する環境にはその広がりがある。領域だ。ある領域のうちにならりんごはその根底的原因があれば実在する。適した環境が先か、根底的原因が先か。根底的原因がいつ発生するのかを考えたとき、無だったりんごが有となるとき、その順序としてはまず環境が必須ではないか。りんごの根底的原因が実在するために必須だったのは、りんごに適した環境だったのではないか。りんごに適した環境にりんごの根底的原因が発生したのではないか。適した環境になかったなら、そこでどれほど時間をかけてもりんごの根底的原因は発生しなかったのではないか。それともりんごの根底的原因はりんごに適していない環境下にあって、やがて適する環境となったことで発芽したのか。そもそもにおいてどこにもなかったりんごの根底的原因が発生するためには、やはりりんごに適した環境が必要だったと考えるほうが妥当な気がするが、環境は変化するものだ。それゆえに、りんごも環境の変化に適応しようとして変化する。それなら、りんごに適した環境はそもそも確かに実在しないのかもしれない。偶然、りんごがりんごとなるような成分が揃ったことで自己組織化し、りんごとなったのか。いったん生じたりんごは周囲の環境に適応しようと変化していった。何かが具体的にあるのは周囲の環境のおかげではなく、単なる偶発性によるのかもしれない。あるいはそれは神すらも関与できない偶発性かもしれない。