その574

 主観はそのいずれもがその時点における真実である。その主観がそれぞれにおいて正しいか否かはまた別の話だ。ただ、あることをそのように主観することとそれ自体がそのようにあることは疑いようのない事実であり、それを真実を呼んでも差し支えない。真実としてのリアルはつまり、虚実ないまぜにある。正しいかどうかはいつか決まるかもしれないが、正しいかどうかは用意には決まらない。ある主観の正しさを決める主体はいちおう人間にあるが、それが世界のありようをそのまま捉えているかどうかが正しさの意味であり、最終的な判断は世界にある。いや、存在そのものにある。単に存在がいかにあるか、我々に問われているのはいつもその存在状況。存在状況について主観するとき、その主観通りか否かは排中立にある。主観が存在を捉えているかいないかは、捉えているかいないかしかない。認識内には妄想が含まれ、すべての認識が正しいのではない。というか、まずは妄想することで存在がいかにあるかを考えることができる。考えた結果、存在がそのようにあると断定する。そして確かに存在がそのようにあるとき、それは必然でもなければ、偶然でもない。常日頃、間違った認識をもつ妄想する我々が正しいことを見出したとして、それがどれほどの確信があったことであっても、その確信自体が確信として実在するかどうか。確信が確信として正しいかどうか、そのことが明らかとならない。