その331

 起こっていることがそれ自体として純粋に存在することはないのではないか。どんなことが起こっているのかは、ある角度から捉えられる。同時に他の角度からの捉え方が成立するとき、いずれが真実かといった問いは無効である。いずれもが真実である。

 起こっていることの純粋さは実質的に実在するはずであるが、その純粋さを純粋なまま捉えることができない。存在するものごとはそのすべてが純粋にあるはずだが、その純粋さを捉えることのできない私たちの認識はだからといって純粋ではないというのではない。ある角度からきちんと捉えられ、かつ、それが認識主体との関係においてはっきりと成立する意味で、どんな主体をもとにした認識もそれがそれ自体として正しいのであれば純粋である。

 起こっていることそれ自体が起こっていることを純粋に表している。それは認識以前の純粋さだ。認識以前にあるできごとは認識による加工を一切施されることのない純粋さにある。ただそれは認識以前にあることから認識されない。認識されないから存在しないのではない。認識するから存在するのでもない。存在するものがただひたすらに存在している。それは極めて純粋に起こっている。