その285

 事実であるが真実ではないことがあり、真実だったことが真実ではなくなることがあるとき、真実は存在しないかもしれないし、永遠普遍の真実がないだけで、正しいことは正しく実在しているが、それがただ続かないこともある。正しければ真実であり、正しいからといってずっとそれが続いていないといけないわけではない。真実といった言葉の持つ意味を正しさだけとすれば、わずかにでもそれが存在し正しくあるのなら、一秒間だけの真実もまた実在し、1億年間の間真実であることもある。正しいからといって、それが正確にそのようにあることばかりを意味するのではない。それがそうでないことも正しさとしてある。正しいことに対して、そうでない事実を私たちは精神のうちで構築することができる。地球が止まっていることは間違っているといった言説は正しいし、夜がこない実在の街に住むことがあったというのは大嘘であるといった説明もまた正しい。肯定された真実に対して、その否定はたくさん組み立てることができ、それはその通り、真実として受け入れられる。間違っていない。正しい。正しさとは、そう表現されたことがそのまま存在に当てはまればいい。1年間眠ることなく日々を生活した。と、言い切ったとき、それは明らかに嘘であり、真実ではない。正しくない。正しくないことも書くことはできる。言葉にすることはできる。言葉は現実にそうでないことでも、いくらでも構築していくことができ、架空のお話のうちではそれが正しく意味をもつことがある。正しいか、そうでないかはだから、言葉そのものだけを取り出しても判断できない。いつ、どこで、どのように使われているか。それによって、同じ言葉でも真実となり、真実とならない。真実とならかいからといって意味がないわけではない。いつもいつも正しいことばかりを口にするのではなく、ときには、心にないことを口走ってしまうことがあるのもまた真実ではないか。あるいは、真実だと思っていたことがまったくそうでないことなど、歴史を紐解けば、いくらでもある。かりにすべての言葉が条件づけられたうえで実在するなら、その条件にのっとって、すべては正しいと考えられるかもしれない。まるで嘘のようなことでも、小説のうちでは正しく成立する。小説といった条件付けのうえであることなど、そもそもどんな言葉もその文脈をもつはずだ。その言葉だけがポツンとあることがあるだろうか。辞書の言葉であっても、それは辞書といった条件付けが行われたうえで、その意味をもつ。どんな言葉の意味も、条件づけられたうえで実在する。そう考えると、すべてが正しいように感じられるが、いかに。