その570

 存在全般に対して行われる認識はそのすべてが存在全般を限定する。同一の物質は認識次第でいくつもの断片に置き換わる。何かが認識されるとき、その何かがいかにあるか、それは認識主体の数だけある。認識主体と認識対象はいずれもが主体であり、その関係性により、いかなる認識が生じるか。認識主体と認識対象が築き上げる関係性それ自体が一個の主体である。関係性にはその枠組みがある。関係性が作り上げた枠組みはそれ自体であり、一個の構造物である。むろん、その外部とのさらなる関係にあるが、認識それ自体が生じるための関係性はその限定的な枠組みを築き上げることで実在可能だ。意味が閉ざされなければ認識は発生しない。世界に広がっている意味の運動を止めることで認識が発生する。認識とはつまり合理化のことであり、それぞれの認識主体にとって理解可能な状況に置き換える。世界にとっては、それらすべての認識が実在する真実である。真実の束でできている世界において、その真実在なるものはない。何かがいかにあるかは、何かがつねに何かとの関係にあることから、何かだけを取り出して、その本性を導き出すことはできない以前に、何かが何とも関係することなく実在することが不可能なことから、何かとはつねに何かとの関係にあり、それらそれぞれの関係のあり方に真実がある。