その254

 起こったことはその決定にある。起こったことから明らかになっていく。起こったこととは何か。結果的にそうしたことが起こったことの意味とは何か。その過去において、起こったことの原因があったのか。蛇口を捻って水がでたとき、水がでるまえに蛇口がひねられる。ひねられた蛇口にでてきた水の原因がある。では、太陽がその姿を変えていくとき、何がその原因なのか。原因にその全体性はあるのか。所詮が認識内において把握される。把握されることはすべてが認識内においてである。原因の全体性はそれが把握されたとしても、認識内においてであることになる。しかし、認識外にも把握されていない原因が潜んでいる可能性がある。そのとき、あることの原因はその全体性を認識内に完全にもつことはできるのか。全体性とはつねに幻影的であり、さらなる拡張の可能性にある。すべてが否か。それが常に問われている。それに答え切ることはできない。全体は全体であるかもしれないが、さらなる拡張にあるかもしれない。そのいずれであるかを定めることはできない。

 どんなことを認識しているのかにおいて、さらに問われるのが、その認識していることの範囲である。どこまで認識しているのか。認識の途上にあるとき、その認識はさらなる拡張にあるが、認識が完全であるなら、その拡張にはない。完全か否かの判断をいかになすことが可能か。はたして、完結した認識は実在するのか。つねに何かを求めているのが認識のあり方ではないか。認識されたことは更なる意味を求めている。更なる意味との接続を求めて存在する認識に終わりはあるのか。変化にある存在のうちにある認識がつねに途上でしかないのは、存在の運動の渦中にあるからだ。存在の運動の中で認識はいかに実在することが適当なのか。

 多に対して1がある。1を認識の現象が発生するための主体としたとき、その認識対象は多である。多に対して一つの主体が生じることで存在において認識といった現象が発生する。多とはその全体を持たない幻影か。認識の基軸に対する存在の多性はその全体を持ち得るだろうか。多性とは幾層にも折り重なった実在である。そのうちにある、ある全体性とはある認識における基軸を定めることで生じる。認識主体はそれぞれの個物に宿る。個物がそれぞれあることは認識主体を意味する。ただそれぞれにある個物は、存在における認識主体である。と同時に認識対象である。1である認識主体は同時に、多のうちにある認識対象である。存在はその全体としては多である。多のうちにそれぞれ1が認識主体としてある。そのときなされる認識とは、その外部においてばかりではいけない。認識主体が認識しようとする多のうちでいかにあるか、その関係性も認識に関わってくる。認識とは認識主体を空としたうえで認識されなければならないのではないか。1としての確実さのうえに、かつ、その実質を空としたうえで、何かしらを認識する。そうしたとき、認識とは何か。いかなることが認識されていくのか。認識はなぜ何かを基軸に据えないと行えないのか。存在を俯瞰したとき、ある領域を認識しようとすれば、ある基軸を定めることになるのか。空を基軸にした認識は可能なのか。認識はある機能をもとにすることでしか実在できないのか。その機能は空とならない。空ではない認識はやはり1である。