その577

 合理性が現実を捉えているとき、その合理性によって示された意味は私たちにとって理解可能にある。理解可能がゆえに実在していることになる。世界のある現象について語るのが合理性であるとき、ある現象と私たちの関係が合理性なる現象によって明らかになる。合理性なる現象とは自然のことでもある。私たちが合理的に理解する現象はそのまま私たちにおける自然によって理解されたのであり、合理性は自然の一端である。合理的に理解されたことは私たちの自然が理解したのである。むろん、合理性は自然の一端であり、合理性が自然のすべてを捉えるかどうか、それは定かではない。議論を俟つところだ。

 世界がいかにあるか、そのすべてが私たちの自然である合理性によって理解されるのか。合理性は自然な理解だが、合理性のみが自然ではないとき、自然は合理性の外にもある。私たちの理解が合理的にしかなされないとき、合理性の外にある自然は理解できないのか。合理的な理解の仕方以外に私たちが何かを理解することがあるだろうか。理解とは構造を知ることとしたとき、ある構造を破綻した論理から理解することができるだろうか。論理の破綻はそれが合理的ではないからだが、破綻した論理が示す意味がそのまま世界の実装の一端を担うといった現象は起こらないのか。新しい認識の仕方があって当然と言えば当然だ。合理性の枠内にしかいることができないとき、合理性の成立のために排斥した何かをその合理性と同時に理解することが現状ではできないのではないか。合理的精神にとってはあやふやでしかないことをそのまま理解することができないのは、単にそれは合理的に理解できないだけの話であり、他の理解の仕方が成立するなら、そのような理解が実在する。あやふやさをそのまま理解できるかどうか、あるいは、合理的な精神とは、そのすべてがまずは脳髄のあり様がその原因にあるのではないか。自然と合理的にしか理解できないように生まれついたのであれば、そこに認識の限界がある。もしくは、その限界は拡張されていけるのだろうか。意識のありようは変容していくはずだ。意識が捉える現実感に変容が加えられていくことで、理解可能性は増していくのではないか。