その572

 証明されたすべてのありようは、それ以上証明できない。しかし、確かなことが確かであるかどうかを私たちは確かめることがある。むろんそれは、その証明された事実が合理的であるといったことのおいて確かであるといった意味であり、合理的であっても実際の世界の運動に沿っていないことがありうる。それゆえ、すべてのありようを証明するためにすべてのありようを証明することの意味とは、ただ単に合理性のみを追求し、その繰り返しを観念的に行うことではない。合理的に証明された事実が実際の世界の運動にあてはまるかどうか。単にそういうことだ。運動する世界のありようを捉えてこそ、その合理性には価値がある。合理的幻影か、合理的実質か。では、不合理であっても、それ故に確かなことがあるとき、いかに証明可能だろうか。それもまた単に、物質の運動が不合理に行われることをそのまま捉えていればいい。すべてが合理的な振る舞いではなく、不合理な振る舞いをするとき、不合理な説明には、それ自体の価値が絶対的にある。私たちは、不合理でしかない事実がほんとうに不合理でしかないことをいかに証明できるのだろうか。なにせ不合理なのである。論理的に閉じていないことを理解できるだろうか。むろん、不合理な現実を合理的に説明されたその証明は実在する。不可能性、不完全性が合理性によって証明された。それはただ合理的に考えていけば、結果的に証明できないことに突き当たるといった事実を提示しただけかもしれない。不合理な実質はどこまでいっても不合理であり、それは合理性では捉え切れるものではない。仮にそうであれば、私たちの認識のプラットフォームを書き換える必要があるのかもしれない。合理と不合理のいずれもが現実であり、その事実をそのまま捉え、理解できているとき初めて、世界は私たちにとって合理的であり不合理であることになる。