その573

 認識はその基盤の影響下にある。基盤がいかにあるかで、いかなる認識を持つことができるか。合理性といった基盤のもとで得ることのできる認識からは不合理性が排除される。不合理であることそれ自体には相応の意味がある。価値があるといってもいい。はちゃめちゃであっても、そのような意味をそのはちゃめちゃさは持っている。1+2=7はそれ相応に個別的な成立にある。現状の数学は同一律がその根拠にある。それゆえに1+1=2だが、数学から同一律なるものを除外し、数が内包する背景を拡張していけば、1+2=7はそれ自体として個別の成立にある。どんなときに、1と2を足せば7だろうか。赤い要素をもった何かが1個、と2個あったとき、それぞれ1個と2個の何かの赤い要素が合計で7となるなら、赤い要素を持った何かが1個と赤い要素を持った何かが2個を足せば、結果的に赤い要素は7となる。この場合、左辺と右辺で表面的に示されている数の意味が同一ではない。左辺では赤い要素をもった何かの個数が示され、右辺では赤い要素それ自体が示されている。かりにこのことを言葉にするなら、赤い要素をもった何かが一個あり、赤い要素をもった何かが2個あり、それらを足せば、結果的に赤い要素は7個ある。そのように示すことができ、破綻はしていない。むしろ、新しい表示の仕方ではないか。1+2=7で表現されていることがどんな「可能性」を持っているか。そんな問いをもった数式となる。可能性についての表現としての数式があってもいいのではないか。1+2=7には、1と2の背景において合計が7になる何かが含まれている。そのような表現としての数式があって、なぜいけないのか。