その574

 1+2=3なのは、2にも3にも同一の1がその背景としてあるからだ。これを同一律と呼ぶことができる。現行の数学では、その背景、つまり、数学でも用いられる数の背景には同一律が潜んでいる。同一律といった約束事を共有することで成立しているのが現行の数学ではないか。

 一方で、可能性としての数学においては、数の背景には同一律があるというのではない。7+3=20といった数式において、その通底する何か、たとえばそれを黒い棒とする。7つと3つある箱の中に、それぞれ10本ずつの黒い棒が入っていれば、結果的に20となる。これを同一律で考えると、右辺の20もまた箱の数でなければならないが、同一律を排した数式では、右辺と左辺もまた非同一的となる。ただそれでも、右辺と左辺はなんらかの意味で同一で等しくなければならない。バランスがとれていればいい。右辺と左辺をつなぐイコール記号はバランスが取れているといった意味とすれば、どうだろう。7つの箱と3つの箱にそれぞれ10本ずつの黒い棒が入っていれば、表立って表現された数それ自体の背景にある影の部分の実際的な実質と右辺で表立って明示された20といった数が等しく、そのバランスが完全に取れることになる。左辺の裏に潜んだ実質と右辺の表に現れている実質が同号でつながれ、バランスが取れていることを可能性としての数学である7+3=20は明示している。