その230

 運動である現象は数式においても、あてはまる。数式は存在の運動について、論理的に捉えたうえでの形式である。形式がそのまま存在の運動を捉えることの意味とは何か。存在が形式的に成り立っている側面があるのは、たとえば、四季がある日本において、その現実を表している。自然はなんでもありではない。形式的な状況を生んでいる。その細部はカオスかもしれない。つまり、捉えることができるようでいて、捉えられない。認識の枠組みに収まりきらない運動が起こっていることで、形式的な現実を凌駕する実際の存在のあり方があるのではないか。認識の内側で起こっていることは認識の限界内にて起こっていることに過ぎない。存在のあり方におけるすべてとは認識を超えたところにあるとしか言いようがない。認識において完結したような現実はそれでいて不完全であるはずだ。形式的な反復が行われる現実において、同一の反復は実在しない。りんごとしては同じであっても、すべてが違うりんごであるように、そのめぐりは繰り返されても、毎回そのあり方には違いがある。繰り返される存在は二度とない。その時、何が繰り返されていると言えるか。川が川であることはその反復にある。太陽もまたいつも太陽である。ある纏まりがある。存在の広がりは、個別の纏まりの集積である。個別にそれぞれが纏まっている。AがありBがあり…、それらが相互に関わりながら実在するとき、関係性の渦の中にありながらも、それ自体はそれ自体であることを保っている。自己保存の法則により、存在はそれぞれが実存する。関係性の渦から逃れることはできないが、飲み込まれてしまうのではない。関係性の渦のなかで自らを保っているのが、万物である。関係性の渦と個別に実在する自己保存の法則はいかなる関係にあるのか。関係性の渦とは存在のすべてを覆うようにしてあるのか。関係性の渦の広がりのなかでその渦そのものだけがあるのではなく、個物がはっきりとあることとは何を意味するのか。運動に飲み込まれてしまうことのない運動がある。その運動とは内的に閉じた運動なのではないか。閉鎖系と解放系の運動があるのか。その運動が同時に起こっているのか。解放系だけの運動があれば、存在はその渦のなかに溶けて消えてしまうはずだが、個物は確かにある。それは運動の指向性が内側にひたすら向かっていることから、その実在となっているのではないか。あらゆる運動があるなかで、結果的に個物が実在することは、その運動の指向性が内側へ向かっている。内側へ向かう運動のほうがその運動の解放系よりか強い可能性がある。結果的に実在する個物は結果的にその運動が内側へ向かっていることから実在するのではないか。むろん、運動の指向性は内側に向かうだけではない。外側にもむかっているはずだが、総じるならば、内向きの力がまさるのではないか。翻って、万物もまた、その外側へ向かった運動をもつものの、結果的にその内側に向かう力が勝ることで、すべてが存在可能になっているのではないか。なぜなにもないのではななく、何かがあるのか。それは存在の運動の指向性が結果的に内側に向かっているからではないか。存在が保たれるためには、一瞬の隙間もあってはならない。存在に保存則が働くためには、内的な運動が解放系に勝る必要がある。すべてにおいて、何かがあるためにはそれ以外の運動のあり方は認められ得ないのではないか。認識超越的な実在はそのカオスが実質であり、予測は可能であっても、そのなかに予測不可能な現実を抱えているのではないか。認識とはつねにその枠組みにある。それは形式である。存在もまた形式的に実在する側面にあるが、その総合はカオスか。認識上のカオスなのか。ありのままの実在が結局はカオスなのか。カオスはその定義を拒むのか。定義できないことは認識できないのであり、たんにそれをカオスとだけ呼び、それ以上のあり方を認識することは未来永劫できないのかもしれない。カオスであることだけが事実である。