その566

 あるということは、できごとが起こっていることを意味する。では、あるから起こるのか、起こるからあるのか。いや、どっちが先にあるかの話ではない。あるということは何かが起こっていることを意味し、何かが起こっているということは何かがあることを意味する。あるから起こるのではないし、起こるからあるのでもない。あれば起こっているし、起こっていればある。なければそれは起こっていない。それとはたとえば、推定される運動である。頭の中で考えられた運動のすべてが起こっているのではない。頭の中で考えられたことがそのままそのような運動をすることがあれば、単に考えられた痕跡だけあって、実際にはそのような運動はないことがある。この意味で思考する精神の現象は世界とそのまま同期しない。まず先にある世界における思考する主体である精神は、その本質が思考にあり、それは世界がいかにあるかを考察する主体である。それはつまり世界がいかにあるかを考え、その可能性について、あることないこと言語化していく。世界にとっては無であるような、思考されたが実際にはいっさいそのようなことはないといったことが人間の頭の中にだけある。世界は物質レベルでは絶えざる生成と消滅を繰り返し、その流転にある。なるようになる。常に結果がでている。一方で、そのような世界のことについて考えている人間の頭の中がこの世界にあることの意味を考えたとき、その精神が実際にこの世界がいかに現象し、関係性を築いているのか。思考する精神は、それがまさにある世界について思考している。精神が思考する対象である世界に存在することの意味とは何か。世界がいかにあるかを思考する主体である精神が、その対象である世界にいかにあるのか。ありうるのか。あることないことを考える精神は、ただひたすらに考えるといった運動をする主体なのか。いや、思考された結果がそのまま世界へと働きかけることがある。思考の結果が世界を物質レベルで変えることがある。真逆に、思考されたこと世界とそぐわずに、頭の中で消滅してしまうことがある。外部化がいっさいなされない思考の結果がある。思考の流れが連なっているなかで、そのすべてが外部化されるのではない。精神内で消えてしまうものがあれば、精神外にでて、世界を物質レベルで変えていくものもある。