その256

 客観もまた、認識主体がもつ枠組みに依存したもので、枠組み自体が主観的であるのだから、客観もまた主観であると言うより他はない。普遍であるとしても、それは認識主体の生きる認識のうちにおいてのことである。

 理解可能性をもとに現実が決定されていく側面がある。どう世界を捉えるかは、理解可能性による。理解できる仕方でしか世界を捉えることができない以上、世界は認識主体にとって、一面的でしかない。認識主体の数だけ実在する面がある。いくつもの面がそれぞれの認識をもとにしてある。それらの面は世界内において確かに実在する。いかに認識したかが、認識しようとする世界のうちに含まれている。認識しようとする世界のなかに含まれる認識は、認識でありつつも、世界のうちに含まれ、認識そのものに影響を与える現象である。

 認識することそのことが存在の広がりにおける運動の一部である。認識だけが存在の外にあるのではない。存在のうちにある認識はりんごが一個あることと同列にある。いかなる認識があるかは、いかなるりんごがあるかである。いかなるりんごがあるかは、いかなる認識があるかである。

 認識は他の存在との関連のうちにあり、それはりんごが他の存在の関連のうちにあることと同列にある。一つの認識が存在することと、ひとつのりんごが存在することには、他の存在の関わりがいくつもある。