その270

 無限とは何か。認識を超えた実在でも、その有限にある可能性がある。認識の外がどうなっているか、わからないとき、存在はその無限なのか有限なのかはっきりとさせることができない。しかし、無限といった観念からイメージされることが実在であるとは考え難い。考え難いのは認識の問題である。認識がどうあろうと、そうあるものはそうある。そのようにあることが土台となって、私たちもどこかにいることができている。そうあることが認識されずとも、それはそのようにある。仮にそうあることとは違う、誤った認識を持っていたとしても、誰かが存在することに問題はない。まったくないとは言い切れずとも、地球が宇宙の中心であると考えていて、それはそれで生きていた時代がある。その結果として、何らかの不具合があったかもしれないが、そもそも、存在のすべてが理解されることがないうえに、間違った認識をもつことはいまでもたぶんにあるのだから、そのようにあるはずのせかいのすべてがはっきりと認識されていなくとも、それは当然のことであり、問題といえば問題だが、問題ではないと言えなくもない。

 無限は実在しないと考えたとき、それは際限なく何かがあることが否定される。数であっても、そのイメージとしての無限とは別に実質的には、存在内におけるその有限にあるのではないか。何かがあるのは、存在が有限だからではないか。限りある存在の広がりをもとにするからこそ、何かがその有限としてあるのではないか。万物には終わりが設定されているのではないか。それゆえに始まりがある。始まりのない存在は存在しえないと考えることができるが、かりに存在に始まりがないのであれば、永遠の実在について考えなければならなくなる。始まりだけがなくて、終わりがあることがあり得るだろうか。終わりがなければ、その存在は永遠か。永遠か否かをどうやって判断するのか。永遠は観測できない。それゆえ、永遠は実在しないとは言い切れないが、少なくとも認識外存在であることは明らかである。存在するとしても、それは認識の外にしかない。あるのはないのか、それは認識できない。無限もまた認識できない、認識外存在である。

 認識できないのはその実質であって、観念としての無限や永遠はその使用も可能であり、かつ、そのイメージなら持つことができる。言葉にしてどんなことなのか説明することができるかもしれないが、やはり、その実質を体感的に認識することはどうやってもできない。体感できないが、頭の中にはある。頭の中にあることは存在の一部であり、存在しないとは言えない。存在するか、存在しないか。それは何かしらとしてあるかどうかであり、何かしらとは物質ではなくとも、あるならある。私たちがどれほどの妄想を抱いて非現実を思っても、その妄想はしっかりと実在していることである。あるいは物かもしれない。人が何を思おうと、思ったことは事実であり、その痕跡が確かにある。思ったとはっきり言葉になって認識されないことであっても、何かをはっきり思ったことの原因になっているなら、思っていないと感じられることや、言葉になっていないこともまた、ある存在の結果を生み出す原因になった可能性があるとして、それは実在である。自身でも感じ得ていないことが身体内部で起こっている。それら起こっていることはすべて現実であり、存在しているのである。何かがあるか、ないか。起こっていることはすべて存在しているのであり、頭のなかを含め、存在の流れのなかにおいて一切見出せない何かは確かにどこにもないのかもしれない。そう言い切っていいのかもしれない。