その255

 1とは何か。存在の根源か。何かがあるためには、1が起因せずには、その実在は不可能か。何かとはつまり、具体である。1といった確実さがなければ、何一つとして具体はない。無ではないが、その具体のない存在の広がりにおいて、あるのはひたすらなるカオスである。カオスだけがあるのではない現在の存在の広がりにおいて、いくつも1がある。つまり、具体がいくつもある。1は1であることで1である。1が1であるためには1であるために必要な数の世界がある。数の世界があることで1がある。数の世界とは具体の世界のことでもある。具体の世界があるから何かがある。何かがあるのは、存在の広がりが有限だからではないか。切り分けられてある何かがあるのは、切り分けられるための力がある。切り分けるための力が働くことで、何かがある。存在するだけなら、何か具体がなくても可能かもしれない。認識しようのない、何かではない存在が実在することがある。いや、それは可能ではない。存在すれば、それが姿を持たないとしても何かではある。つまり具体である。しかし、それが1でないかもしれない。1ではないが、存在している何かとはいかなる実在か。ゼロではないが1でもない存在はひたすらなる不定形であり、それはつまりひたすらなる運動のことか。エネルギーのことか。エネルギーの流れだけがあるとき、存在の広がりにおいて一切の姿がない。認識主体が不在でも、そのあり方の変わりはない。認識主体による認識は存在の姿をどこまではっきりと捉えているのか。認識主観性から逃れられる認識は実在するだろうか。いかなる認識もそれが認識である限り、それは主観的であるはずだ。

 客観的な認識もまた主観的である。確かに好き嫌いで判断したうえでの認識ではないとしても、認識はそれがいかなるものであっても、その主体の機能に依存しているので、主観的である。主体のない認識は実在しない以上、認識はそれがいかなるものであっても主体依存的であり、主体依存的な認識は主観的である。