存在する物事のあらゆる現実を知り尽くしたとき、そこには完全な認識があるのかもしれない。存在する物事のあらゆる現実とは、一個のりんごのすべてを含むが、一個のりんごのすべてとは実在可能か。私たちの認識は一個のりんごのすべてを包摂することが可能か。どういったときにりんごのすべてがわかったと断定できるのか。りんごのすべてすらわからないのに完全な認識が実在するだろうか。りんごにはすべてがあると考えることに問題があるのかもしれない。個物には全体がないとしたとき、存在の広がりにおいてある情報を具に捉えていけば、いつしか完全な認識に到達することになるのか。到達したことの証明をどうやって得るのか、それはわからない。これ以上、存在する物事にまつわる情報がない。だからすべてを知ったというわけにはいかないはずだ。存在の細部はつねに動いていて、認識上にないのかもしれない。認識はそれが認識である限り、存在そのものと同一ではない。存在そのもののリアルとはそのリアルタイムに起こっていることのことである。それは認識の外にあるのではないか。認識はそれが処理である限り、実際に起こっていることとわずかにでもタイムラグがある。あるいは、認識とはその認識主体の機能に依存し、他の生命において、私たちの知らない認識がある。ある主体の認識の外にあることが他の主体においては認識の内側にある現象がいつくもある。あらゆる認識主体の認識を総動員しても、完全な認識は出来上がらないはずだ。