その342

 なんのことか分からない現実も、ただそれがそのように存在するといった意味では明解である。認識をとっぱらったうえで認識することができないことから、存在は常にそのありのままを捉えることができない。そもそもにおいて、存在が他の存在を理解することとは何か。りんごがバナナを理解することとは何か。りんごはバナナの何かしらに反応することで何かしらを理解していると考えられる。理解とはつねに言葉になることばかりではない。非言語でも存在について理解していることがある。だから、私たち人間はその活動にあることができ、生きていることができている。単純反応系がこの存在における在り方ではないか。相互反応がそれぞれあることでそれぞれが実在する。つねに周囲とのバランスのうえで実在する何もは、常に何かとの反応状態にある。つねに反応状態にある何かはそれ自体であり、かつそれ自体ではない。関係性のベールに包まれている。

 テーブルの上にあるりんごとは刻々と移ろうその反応状態の結果である。絶えざる更新状態にある反応のあり方は何かひとつの具体的な状況ではない。りんごといった一個の具体を場として展開される状況には関係性のベールがかかっている。いかなる反応状態にあるか、その全容は明らかではない。反応状態にある一個のリンゴがいかにあるか、その全貌があるのかどうか。あるとしても、その全体というよりか、時空間において不連続にそのあり方があるのではないか。関係しているか、いないかの二律背反にあるのがリンゴ一個が関係している状況のことではないか。時間はそれぞれの場において異なっている。異なった場がそれぞれ空間にひろがっているとき、同時に起こることは実在しないのではないか。同時に二つの点を打つことはできない。りんごがいかなる関係にあり、その全体のようなものがあるとイメージしたとき、その全体とはいつのこととなるのか。全体があると考えるなら、そのまとまりが一つの時間のうちになければならないが、時間はそれぞれがばらばらに不連続にある。その全体を志向しても、一つの時間でくくることができない以上、りんごが関係している全体はそのまとまりとして、いつになっても、鮮明に実在することがないのではないか。認識のうちにその全体をイメージすることができたとしても、それが実質的にはただの妄想かもしれない。