その348

 万物が時間の支配下にある。そんなイメージがある。時間とは存在すると考えられる物事のうちでこの現代をしても抽象的で、その実態がはっきりとしない。万物を支配下におくといった意味では、神と同類な感じがしないでもない。神もその実態をして抽象的であるが、そういった言葉を使う限り、神は実在する可能性があるわけだが、それが何なのか、まったくもって分からないといった意味では、時間も同じではないか。同じであるのは、神も時間も人間が考えついたものであり、かつそれはピュシスなのだろうか。神とはピュシスを意味する自然なのだろうか。時間とはピュシスを意味する自然なのだろうか。

 それ抜きでは何かが存在することがないといった意味では神も時間も万物を支配下におくと考えられ、かつ、それがあるようでいてないようなあるようなないような存在として精神のうちにある。時間といった概念があっても、その実質というか、その真実のあり方を私たちは知らないし、それは神の実在についても同じではないか。ただの妄想なのか現実なのかいまひとつはっきりとしないといった意味で、神も時間も似ていると考えられる。人間にとっての現実がすべてその精神のうちにしかないなら、現実はすべてが人間が生み出した何かである。しかし、人間にとっての現実がすべて認識内にあるのではない。認識外にある何かしらが人間の生存を担保しているのであり、人間は生きるためにその関わりにあるすべてを知っているのではないのは言うまでもない。

 知らないこととも関係しているのが人間のみならず万物ではないか。石が何かを知っていると考えることができるのは人間の側からの認識しに過ぎないのか。いや、人間が知っていると考えることはすべてが人間の側にある現実に依存し、それゆえに、死っているといった意味を持ち出して、石のあり様を述べようとする。石からすると知っているといった意味が人間の感じる意味とは異なっているかもしれないが、しかし、人間が石そのものになることはできない以上、石がいかなるものであるか、それを知ることができるのは人間的なる眼差しをもってしてしかおこないようがない。この意味で私たちは自らの精神が作り上げる箱の中にいることになる。そこから出て行こうとして、その拡張を行うかもしれないが、それは、箱が拡張されていくだけで、箱の外にはでることができない。できないというか、箱の外の世界とは関わっているのだが、それがいかなることにあるか、それを知らないのである。知っているか、知ってないかといった意味では、知っていることしか知っていないのであるのだから、知らないことは徹頭徹尾知らないのである。知らないから関係ないのではないのは先ほど述べた。関係のあることだけを現実として生きているわけではない。関係しているが知らないことがいくつあるか、そのことと関係していないだけあって、知ることは容易ではない。関係していることならその調査はし易いが、現実的に関係しているが、どんな関係にあるのか、その緒が見当たらないことは下手をすると永遠に知ることがない可能性すらあるのではないか。翻って、すべてと関係しているなら、徹底的にその関連を紐解いていけんばいいのだろうが、存在する物事の相互的関連について、そのすべてが明白になることがあるだろうか。明白になることの意味とは、関係性の一部始終がそのリアルタイムで明らかになることを意味する。つまり、世界をそのまま完全に捉え切るといった意味だが、テクノロジーの発展をもとに、世界の全てリアルタイムで明らかになることがあるのだろうか。そのためには数を超えないといけないような気がするがいかに。数と数のあいだにある語り尽くせぬ現実もまた明らかにすることなくして、現実の世界の理リアルタイム認識はその初めにおいて不可能だ。