その400

 起こったことがある。それがそのように起こったことはそのように認識されるから存在する。それがそのように起こっているのは、そのように起こっているからではあるが、それはそのように起こっているだけではない。そのように起こりながらもそのようではないのではないか。仮にそうだとすると、そのように起こっているといった事実はどのようなことなのか。

 認識の中にその機能があって、その機能により認識された世界はその時点でそれ自体として実在するようになっている可能性がある。実際にはそれだけではないかもしれないが、そのように起こっていると捉えなければ、一切の認識が実在しないことになる。認識とはつまり世界に対しての切り取りであり、運動する万物のどこかを切り取って、それを事実としている。それをそうだと思うように生まれついているのが私たちではないか。どうあろうと認識それ自体のうちでそれを事実と決定づけることがない限り、この世に事実が存在しないことになりかねない。だからといって、無理からに切り取ってそれを間違いのないこととしていいのかどうか。むろん、すべての認識がまちがっているというのではない。認識された結果を現実の運動に当てはめてじっさいにそううごくことがあるなら、認識はそのまま正しかったことになる。とはいえ、正しいといっても、完全にそうなのか。おおよその概略なら当てはまっていても、完全に世界を再現するかのような認識は実際にあるのだろうか。起こったことから明らかになること自体が究極の事実のとき、かりに認識通りに起こったとしても、その認識がつねに正しいのでない限り、そこには偶然性の関与がわずかでもあることになる。