その415

 すべてそれ自体は実在するが、すべてそれ自体を認識することはできないというか、できたか、できていないか、その判断を確かに下すことはできない。すべてを理解したとき、それはほんとうのすべてを理解したと、どうやって確証を得ることができるのか。アウトプットすることならいくらでもできる。言葉にならいくらでもなる。その言葉が実質的にどうなのか、その判断こそがその言葉の真価であり、言葉はそれ自体が指し示すことが実質的にどうなのか、その判断を待っている側面がある。述べられたことがあり、断言されている風であっても、それが正しいかどうかは分からない。メタ的にどうなのか、その判断がなされる必要があるといった意味で、言葉はそれ自体がつねに懐疑される対象として実在し、それはどこまで懐疑され続けるのか。正しいかどうかの判断をどこで絶対とするか。確証が確証である判断をいついかなる主体が可能にするだろうか。すべてを相手にしたとき、何かの正しさが限定的である可能性について考えないといけない。限定的であるか、全体的であるか、その判断を下そうとするなら、全体を確実に把握しておく必要があるが、把握した全体がほんとうに全体なのか、それはやはり分からない。合理的に通用する物語が通用する範囲において通用しているだけで、存在の全体に対してではない可能性がつねにある。可能性はあくまでも可能性だが、現実に含まれる。私たちはつねに考えるが、それは可能性についてのことがある。考える限り、可能性についての考察から逃れることはできない。認識されたことは可能性とともにあるのだから、どれほどの断定も可能性とともにある。