その412

 推論された可能性について、それがそのように実現したとき、その予測は現実的だったことになるものの、その実現が偶然であったか、必然であったのか、その考察をしないといけない。ある推測通りに起こったことをどのようにして、偶然あたったのではないことを証明すればいいのか。具体的に言葉にすることはできる。それがどれほど考え抜かれたものであってもだ、結果的に思い通りになったことが偶然かもしれないのではないか。どうやれば、結果的に起こったことがそのように起こ流るべくして起こったと、理性的にとらえ切れていたことを実証できるのか。起こったことを検証する必要はあるかもしれないが、それ以上に、私たちの理性的な推論とは何であって、この世界においていかに実在するか、そこをまず考えていかないといけないが、それ自体が理性のなせる技であり、理性で理性のなんたるかを考えることになる。理性で理性のなんたるかを考えたとしても、理性の範疇をでることはない。あるいはそれはただひたすら考え続けることを意味するのみであって、その思考により生み出される解にはつねに問いがつきまとうといった巡りにあるのではないか。どんな問いも受けつけない事実などあるのだろうか。考えることをしないことが肝心な理性的態度がある。たとえば、なぜ人を殺してはいけないのか。これは考えることではないのではないか。考える以前に一般感覚として、そういうものとして実在するのではないか。人をなぜころしてはいけないのかを考えることとは、そのまま狂気の世界ではないか。