その262

 それぞれが異なる差異を内包しつつも、何かしらの固定点を秘めた実在がある。一個の形式があり、それを元に差異が表現される。形式なき実在は何かあるのか。一切の形式を持つことのない何かが実在することは可能なのか。固定点を持たない何かとは、カオスでしかない。流れとして実在するに過ぎないのか。流れとして実在することの意味とは何か。流れもまた形式を持っている可能性がある。形式をもたない実在の存在の仕方とは何か。ありえるのか。カオスといってしまえば、そこでおしまいか。カオスとは形式を持たない実在であるといっても、それ自体が実際にそのようにあるのかどうか。それを表す言葉があっても実態のないことがあるのかもしれない。形式があるから何かがあると言い切れるのか。わずかでも形式があることで何かがあるのか。ひたすらなるカオスが実在することはあり得るのか。それは形式をもたない状況に過ぎないのかもしれないが、形式を持つことなく何かがあることがあり得るのか。カオスとは実在について用いられるとき、形式を持たないことを意味するのではなく、形式を持つものがカオスにある。それはいかにあるか。関係性の複雑さが予期しない形である。カオスとは存在の仕方ではなく、私たちの認識上においてあるあり方にもちいるべき概念かもしれない。認識内にあるのがカオスであり、認識外には何がいかにあるか、それは知らない。形式を持たないものが仮にあるとしても、それははたして認識可能なのか。認識できないものをどうやって存在として捉え、それがそのようにあると分かるのか。存在していることがあるわけだが、私たちは私たちの認識内においてしか実在していないような錯覚さえする。もっとも、知らないことともその関係にはある。存在の広がりの一切に含まれた実在である私たちは、認識内に実在するようでいて、存在の一切に含まれた実在である。認識の中で生きているような錯覚を覚えるのは、私たちに精神があることを意味する。認識していることだけを意識的に操作することができるわけだが、操作したときに起こっていることは認識の外にあることも含む。偶然がそこにはある。すべてが偶然であれば、存在は形式をもたないが、形式をもつ存在はその必然にある。形式理解はどこまで可能か。理解されない部分は私たちにとっては偶然となるが、存在のあり方における自然からすると必然でしかない。起こっていることはすべてが自然にそう起こっている。すべてが形式にのっとっているわけではない。すべてが形式をもつことなく、起こっているのではない。形式をもちつつも、実在は拓かれ、その運動は形式以上の複雑さにあるのではないか。そのことをカオスと呼べるのかもしれない。形式を超えた複雑な運動のことをカオスと呼べるのかもしれない。