その384

 仮に、この世界に在らん限りの過去から未来までの広がりがあって、そこを移動するように実在していると考えてみるとどうだろうか。そうなると、すべては決まっていることになる。在らん限りの過去から未来まで、何が起こるかすべてきまっていなければ、在らん限りの過去から未来は実在しない。むろん、過去は決定的である。起こったことが過去に蓄積されていく。それは絶対的だ。しかし、在らん限りの未来がすでにあるのであれば、明日何かが起こり、たとえば彼が何を言うかすべて決まっていると考える他はないが、そう考えることは難しい。では、在るのは現在における関係性だろうか。関係性が現在において実在することで物事が生じている。どうなるか、それは関係性がどう転んでいくかだ。

 なぜ何かが起こっていて、それを観察しているといった実感があるのか。観察している物事とは何か。どこにあるのか。一瞬先の世界は見えない。一瞬前の世界もまた見えない。であれば、見えているのはいつのことか。時間は均一ではなく、ズレがある。いる場所から眺められた世界において、同一の時刻をかりに設定したとき、地点アと地点イにはズレがある。場が異なれば時間も異なる。同一の時刻がないとき、ひたすらなるズレの総体が時間の正体と考えられる。そのありようをイメージした時、そこには何らかの法則が潜んでいるのか。連続しているのか。不連続なのか。バラバラに散らばった時間が現在といった箱のなかに押し留められているのか。その箱とは私たちのもつ認識のことか。認識の箱のなかに現在がある。認識の限界により、現在しか認識できないのか。いや、やはり、存在しているのはとにかく現在しかないのか。認識しようとしまいと世界は現在しか投影することがないのか。世界があるから何かがみえる。みえる世界はつねに現在しかないとしても、それは認識の限界に過ぎないのか。いや、実質的に世界は現在においてしかその広がりを持たないのか。であれば、一瞬前の世界はどこに消えさったのか。それはもはや見えない。見えないが確かにあった。何がどうなって一瞬前の世界は消え去ったのか。ほんとうにどこにもないのか。現在だけしかないとしたときの世界はどんな広がりにあるのか。現在といった時間の広がりのなかにすべての存在があるのか。どうやっても一瞬前の世界に辿りつくことがないのだから、それはないのか。起こることが起こっている。何かが起こっているのもまた現在においてか。認識できるのが現在しかないから、起こっていることのすべてが現在において起こっていると感じられているだけなのか。過去は動かない。何も起こっていない。起こるとは動くことだ。動かない過去では何も起こっていない。動く現在と動かない過去は同一の世界に実在していないのかもしれない。過去は私たちの精神のうちにあるだけなのかもしれない。むろん、現在に礎として過去があると考えることはできる。過去そうだったから現在がこうなのだ。たしかにそういった事実はあるが、どこにもない過去から影響を受けた現在とは何か。過去と現在はどんな関係にあって、この世界にどんな姿で実在しているのか。千年前にあった石が現在にもある。むろん、千年前の石と現在における石はその姿が違う。とは言え、同一の石だ。世界のなかを現在がその関係性をもったうえで運動しながらスライドしていっているのか。存在は動く。だから関係性を生じさせる。それゆえに何かがある。なにかがありえる場としての現在がある。現在とは動きつづける関係性のことだ。関係性の運動がある場として現在がある。現在が関係性により動き続けることで世界は変転していくのではないか。