その405

 いるかいないか。あるかないか。そのいずれかしか可能性としてはない。いるならいる。いないのならいない。しかし、そのいずれであるか、その判断がつかないことが多い。それ故に残されるのは可能性となる。可能性として認識される現実がある一方で、可能性でしかないといった嘘偽りとすらなりかねない現実をそれでも生きるしかないのか。可能性をあくまでも可能性としてきちんと認識する作法が私たちの妄想的な精神には必要とされるのではないか。

 何かを思い考えることはつまり、いかに考えることを意味する。考えていることがどういったことなのか、そのメタ認知がいる。現実にあることをあるがままに捕えようとしているのか、現実にあるかもしれないことを可能性として捕えようとしているのか。つまり実在そのものについて思考しているのか、実在はしないがありえるシナリオを考えているのか。下手をすると推論をそのまま現実のように思い、考えていることがあるのは、私たちが妄想的な生き物であるからだ。

 考えることはいい。イメージを膨らませることもいい。しかし、それはすべて現実との関わりにおいてなされるべきであり、実在との関連性のないことはそのすべてがひとまず妄想である。むろん、その妄想には意味がある。しかし、なぜそうした妄想がいけないのか。自由に考え思うことのどこがいけないのか。誰かが真実を確かに知っているのではない限り、誰がなにをどう考えようと勝手ではないか。あるいは、巡り巡って、それが現実かもしれない。だれかの非現実が誰かの現実かもしれない。ありえない妄想も物語になれば現実感をえる。むろん、すべての物語は実在しないというか、その物語のなかにだけである虚構的真実である。虚構であっても物語の姿をもつことで真実となる。それが真実となるのは、私たちの心の響くからではないか。なぜ心の響くのか。それはその妄想が現実的だからだ。まったくもってあり得ない話なのになぜそれは現実として受け入れられるのか、考えてみれば、不思議なのものだ。

 いるのかいないのか定かではない。あるわけではないのにあるとおもうことができるから物語は成立し、人の心を動かす。神の概念もまたそうした私たちの妄想を受け入れる機能により人間社会になんとか実在しているのではないか。