その343

 あるリンゴを起点に考え、そのりんごと関係のある領域があるとしても、それ自体が移ろいとしてある。移ろいにその全体はあるのか。全体があるか、ないかの話は認識のうちがわで起こっていること自体の認識に過ぎないと考えられる。認識の内側にならその全体があるのかもしれない。全体だと感じられたなら、そこは確かに全体がある。それはこの世界のなかに全体があることを意味する可能性がある。私たちの精神のうちに全体があれば、それは世界内存在だ。しかし、だからといって、それで実際に一個のりんごと関わっている全体があると考えていいのか。全体はその領域が定まらなければないような感じがある。定まった領域は絶対停止しなければならないが、運動する領域が絶対停止することはない。運動する領域の移ろいをそのまま捉えることができたなら、そこには全体がある。関係のある領域の移ろいをそのまま捉えることでその全体があると認識することができる。とはいえ、移ろう全体は認識可能だろうか。見るだけでは当然できない。式に数をあてはめて捉えようとしても、概算でしかない。存在をそのまま捉えるにはそれ自体になるしかないが、それは永遠に不可能でしかない。あらゆる実在がそのようにあることは疑いようのないことだが、他の何かがそのようにあることはできない。他の何かはそれ自体としてそのようにあるしかない。酷似した何かはそれでも同じではない。万物はそのすべてが一瞬のうちにある。一瞬のうちにあるすべてがその移ろいにある。認識をとっぱらったとき、何かがあるのはいつなのか。昨日あった川の流れを取り戻そうとしても、どうやっても無理だ。一瞬前でも無理だ。過去になって消え去った実在はどこにいったのか。現在の一瞬の土台であることは確かだ。何かがある。それはつねに現在にある。それは私たちにとってのことなのか。認識してあると思えるのが現在しかないから、何もかもが現在にしかないのか。それとも万物のありかはそのすべてにおいて現在なのか。であれば、時間のうちに何もがあると考えられる。認識するから何かがあるのではなく、流れる時間のうちに、つねに現在を指し示そうとする力が働くことで、現在に何かがあるのか。認識が現在についてしかなされないから現在に何かがあるとしか思えないのではなく、認識をとっぱらったとしても、存在するものはすべてが現在においてあるのか。私たちのみならず、存在のとっても過去はあり、未来もある。あるとはいえ、触れ得るものではない。いかなるテクノロジーの進化が起こっても、触れ得るものと、永遠にふれ得ないものとにわかれる。そこに現実があり、断絶があると考えることも可能ではないか。物質的にすでに存在しないものは有の側からすれば無ではないか。永遠の喪失といった意味で、有は無は生み出すと考えらないか。無とは何もないことでもあるが、何かが決定的に欠落していることを意味すると考えたとき、現在はひたすらに無を生み出していると考えることができる。有は時間の流れのなかで結果的に無となるのではないか。時間の流れがなければ、何も存在し得ない。時間の流れとは時間の運動のことだ。時間の運動があるから何かがあるのではないか。運動である万物は時間の流れに含まれているのではないか。時間が何かを生み出していると率直に述べることは難しいが、大前提として時間の流れ、あるいは、運動がなければ、何も存在し得ないのではないか。