その399

 あるのは何か。認識に閉ざされた部分がその絶対としてあるのではないはずだ。関係性の認識は断絶させることで初めて実在するのではないか。それでその部分としての認識がなぜ成り立つのか。りんごの部分の認識がなぜ成立するのか。単にそれは合理的なだけで、その合理性自体が認識されているだけで、実質的にりんごを認識したわけではないのではないか。むろん、りんごにはこういう特徴があるといった意味で、部分的認識は認識のうちにある。しかし、実際にあるりんごの部分はつねにその変動にあり、その変動を動いているまま取り出すことは不可能ではないか。実際にあるりんごの部分だけを取り外せば、その時点でそれはそのりんごの全体からかけ離れた実在になる他はない。全体と接続されていて初めて、その部分として成立するはずのりんごは、その部分だけを認識することはできないはずだ。関係性のネットワークのうちにあるそのりんごは物質としてその部分を完成されたものとして持つことはないのではないか。つねに変動し続けているそのりんごの部分だけをどうして取り出すことが可能だろうか。すべては存在の中に含まれている。それすべてが計り知れない関係性のうちにあるということを意味するのではないか。あるりんごをかじったときかじったのはそのりんごの部分すべてだろうか。かじった瞬間に生じた現象がそのかじられた部分だけに影響を与えているだろうか?