その397

 可能性のすべてが言葉になるわけではない。言葉になって推測されたこと以外が現実に起こることがいくらでもある。言葉になることはわずかであり、現実に起こっていることのほぼすべてが自動的に起こっているようなもの。こうなるだろうといった推測はその大枠であり、構造といってもいい。構造が推測され、実際にそうなることはあるかもしれないが、その内実については、起こったことから明らかになっていく。あと5分後にお風呂のお湯がいっぱいになるのことがどれほど正確に予測されるだろう。お風呂のお湯がいっぱいになることそれ自体がそのようになるといえる。これもある種の構造的結果だけに着目したときに現実的適切さであり、お風呂のお湯がいっぱいになるかどうか、その結果について、そう述べられたことの文字通りの意味だけをとれば、まったく正しいといえ、さらには、現実にもそうなったなら、そう述べられたことは正しいし、そう述べられたことをうけて起こったことも正しいのかもしれないが、しかそれは完全に言葉だけに依拠した結果にすぎない。言葉の箱のなかで閉ざされた話にすぎない。言葉の箱の中で起こっていることとはいかなることか。言葉通りになることともいえるが、言葉通りになった現実の物質性は、その言葉の箱の中にはないのではないか。明日、受験がある。そして、実際にあるとしたとき、言葉の箱のなかではそれは完全に正しいが、どんな受験があるか、そこを考えることとしたとき、言葉の箱の外に現実があることになるが、しかし、明日、受験がある、といった表現においてはいったい何がどこまで含まれるのか。つまり、私たちが妄想的な生き物であることの証として、文字通りの意味だけをその述べられたことの意味としない習いがあることから、私たちが知ろうとするのはその構造だけではないことになる。一般に私たちは、受験がある、という構造だけを知って、知ったことにしないのではないか。

 可能性が実現するとしても、それは構造的に実現したに過ぎないのではないか。その物質性について細部を捉えていこうと認識すれば、どんな雨が降ってくるかその詳細について可能性を述べ、完全に的中させる技術が現にあるのかどうか。構造は発見され続けていけども、その中身については起こったことから明らかになっていき、起こっていないことはどうやっても、起こったことから明らかになるとしか考えようがないし、そうした現実を受け止めざるをえないのではないか。それとも、一瞬先の物質の運動のごくわずかな振る舞いについて完全に予測可能なのかどうか。