その396

 可能性とは何か。起こっていないが起こるかもしれないことだとしたとき、起こるかもしれないことのうちにいずれかが起こるとしたとき、起こらなかったことはその時点でその可能性を失ったと考えるべきなのは、起こるかもしれなかったことのその時点においての現実であり、同様の何かがいつしか起こったとしても、それは別の可能性が実現したと考えるべきではないか。

 可能性とは私たちのうちにある。考え、推測をするその機能により生み出されるのが可能性ではないか。考えることなく、推測をすることがなかったら、頭のなかに可能性はないかもしれない。頭の中にある可能性は一刻、一刻、その時点における現実であり、言葉に置き換えたときに同じ現象であっても、それがいかに起こるかは、時々で異なっている。可能性について考えたとき、その細部については考慮されない場合、起こるかもしれないことがその時点ではなく、ずいぶんと時間を経た後に起こることが考えられるが、あくまでも可能性とは私たちの頭のなかの現象であり、そのときの頭の中の状況に依存した現実であると考えたとき、その細部まで言語化されずとも、それは確かに一回性を持った現実ではないか。であれば、起こるかもしれないが起こらなかったことはその時点でもう一度も起こることがない。その時点で可能性は完全の消滅したことになる。たとえば、川の水が凍る可能性があると考えたときにそのときに凍らなかったが、数日後に凍ったとしても、その現実について考察された可能性の内実は、それ以前における川の水が凍る可能性とは別種のものになる。こう考えていったとき、可能性とは言語で示されただけのことではないことと考えるべき側面をもつことが絶対となる。詳細は明らかでないとしても、考えられる可能性はその時点での可能性に過ぎない。であれば、永遠に時間があっても、起こらなかったことは起こらなかったことになり、どれだけの時間があっても、その時点で起こらなかったことはどうやっても起こらない。それでも永遠の意味するところが、あらゆる可能性が実現する場であるなら、その意味における可能性とは、観念としての可能性であり、物質的な現象の微細な細部を除外した結果について起こるか起こらないかについて、結局は起こるといった見立てが実現する可能性のことではないか。トマトが空を飛べば、それは実現したことになるが、その可能性について考えた時、それとセットでどのような次元で飛んだトマトなのかが言外において同時に問われているのではないか。