その263

 起こっていることのうちで何か一つでも不自然なことがあるだろうか。起こっていることはそのすべてが自然ではないか。自然に起こっていることをその自然のまま理解することができるか。自然とはありのままのことであり、それはいわゆる人工的な現象も含まれる。でないと、起こっていることのすべてが自然だと言うことができない。起こっていることのすべてが自然だというとき、人工的な現象がどんなことなのか、定義されることになる。定義とは、それ自体が存在においてどのようなことなのかをいうのであるが、前提や関係性によりその定義は異なる。何かが人工的であるというとき、対局に自然がある。しかし、すべてが自然だとなれば、人口は自然に含まれる。その時、人工とは自然である人間が自然になした結果生じた現象であり、もともと自然界にないことであっても、自然である人間から発生した現象は自然であり、人工の意味とは単に人間が作ったといった意味で、それは蜘蛛が巣を作ったのと同一の地平にある話である。何かがどんなものであるか、それを言葉で捉えようとするなら、さまざまに記述できる。どのような前提での話なのか。どのような関係性のうえでの話なのか。定義の中心がかりに空であるとするなら、それが何であるかを言葉で捉えるとき、それが何である以前にどんな関係性のうえでの話になるかが問われることになる。それはそのものの本性をあぶり出すのに適当だろうか。空でしかない何かが何かであるとの断言にはつねに可変的な可能性があるのではないか。何かが何かであるのは、何かとしてあると言うことができることに過ぎないのではない。そういうことができるだけで、その実質がほんとうにそうなのかは分からない。実質が空である何かを知っていると思っているのは錯覚か。りんごは果物であるといったとき、果物は何かが問われるわけで、果物とは各各然然であるとしたとき、そのかくかくしかじかとは何かとなる。存在であるりんごは果物かも知れないが、果物とは何かを言葉にすると厳密に定義しきれなさがそこにある。しかし、果物であることは確かだろう。その時、何がりんごを果物と定義したことになるのか。それは、物質レベルでの話であり、言葉ではない。物質レベルで起こっている現象のうちに種が発生する。物質レベルで存在する種がそれぞれ存在の区分けして行くことになるのではないか。それは自然の流れにあるのではないか。りんごとそうでないものでも果物の種のうちにあると物質レベルで定義されるとは何か。それはその姿だろうか。成分だろうか。どうした形式でそんざいがそれぞれ種別に分かれ定義されるのか。