その383

 存在するか、しないか。それは排中立にあって、存在するものは存在し、存在しないものは存在しない。では、存在するものはいつまで存在し、いつから存在しないのか。昨日、そのようにあったりんごはもはやどこにもない。ただそのりんごは現在においてなら、ある。りんごがあるか、ないかではなく、どのようなりんごならあって、どのようなりんごならないか。問われるのはそこではないか。存在しているものはすべてが現在にあるしたとき、現在においてそのようにあるりんごだけがあって、それ以外のりんごはこの時空においてどこにもない。時空そのものが現在にしかないとも考えられるがいかに。時間と空間の広がりがあることで何かが存在する。時間のひろがりは過去から未来へ向かって広がっているとも考えられるが、昨日の世界がどこかにあるのか。人間が生きていられるのはただひたすらに現在だが、それはそのように仕組みができあがっているだけで、実際には昨日の世界が時空間において広がっているとかんがえることができないか。いや、考えることだけならできる。しかし、どうやっても、昨日の世界を実際に見つめることはできない。そのように仕組まれているのか。それとも、やはり、昨日の世界はこの時空間からも消え去ってしまっているのか。そのとき、時空間とはどんな広がりにあるのか。