その345

 秩序が認識上でのことだけであって、存在は認識の外につねにその関係を持っているなら、私たちは何も認識できない。認識していることはその限りであり、実際にはそうではない。いや、人間世界においては事実そうであり、人間世界は存在のうちにある一つの現象であるのだから、そこで起こっていることは存在のうちにある事実である。しかし、人間世界が持つ認識が存在にそのままあてはまるか否か。存在を構造的に捉え、式におきかえ、未来において存在がいかにあるかを予測するとき、その何が明らかで、何が明らかではないのか。雨が降ることは明らかであっても、どんな雨が降るか、それは明らかではない。どんな雨が時空のどこを通って地に落ちるか、それが明らかなることはあるのだろうか。明らかになることないなら、認識とは何か。形式として捉えたにすぎないのか。形式としてなら捉えられるのが人間の機能だろうか。細部に亘っては度外視したうえで、雨が降るといった形式を捉えること。どんな雨がどこに降るか、その細部については認識できないとき、認識とは形式的な現象にすぎない。実質的ではないのではないか。