その268

 存在はカオスに存在するわけではないのではないか。私たちの認識においてカオスといった現象が起こるのではないか。存在はその形式にある。現在は少なくともそうしたあり方にある。形式を失った存在の仕方がカオスである。何かしらがそのようにあるとき、そのあり方において、一切の形式がないのであれば、それはいかにあるのか。完全なる流れだろうか。流れもまた形式をもつと考えられる。形式をもつことなく存在することはあり得るかもしれないが、わたしたちとはその認識において形式的にしかなしえないのであれば、あらゆる認識は形式的に為らざるをえない。何かを知るとき、形式的でないことも知りうるだろうか。それはいかにして成り立つのか。固定点を一切持たない何か。それは実在するだろうか。あらゆる存在が解き放たれているなら、そこには一切の固定点はない。ただある。いかにあるか、それは理解されない。つまり、完全なるカオスとはその理解を超えた実在である。それがそのようにあることをそのようにあるように認識することはできない。現にある存在の形式的な部分とは別に実際に存在のあり方としてカオスが現に実在している可能性はゼロではない。認識上のカオスとは別の意味でのカオスが実際に存在においてある。認識上のカオスがAなら、実在する存在のカオスは非Aであり、Bか何かである。認識上のカオスとは、捉え方においてカオスなのであり、そこには少しでも形式がある。形式となっていない部分もまた存在の仕方としては形式なのではないか。固定点を持たない何かがあるとは今日日の存在においては考え難い。固定点を元に、何かがある。何もかもが固定点をもとにした実在なのではないか。実際の存在においてカオスの要素があるなら、存在はしているがそれ自体には固定点がないことになる。それはいかに実在可能か。私たちの認識内には実在しえないのではないか。認識の外にはあるのかもしれないが、私たちは果たして認識の外にでることができるだろうか。存在が形式的であり、かつ、非形式的であるとき、非形式的の部分は私たちにとって透明であると考えられる。実際にそれはそのようにあるのかもしれない。しかし、永遠にそうなのかもしれないとしか言えないのではないか。あり得るかもしれないが、それ以上、いかに捉えようとすれば、形式をもたない実在を把握できるのか。私たちは私たちの認識機能の限界にある。それは常にそうであるが、その拡張や超越はこの先どのようになされていくのか。