その261

 存在の関係性にいて考えたとき、表と裏が相互にその関連にある場合と表と裏が相互にその関連にない場合もまたあるのではと全章で述べてきた。一個の定点を定め、かつ、その運動を追いかけたとき、その点と関係にあることがいくつもあって、関係のないこともまたいくつもあるのではないか。たとえば、一個のりんごを定点とする。かつ、そのりんごは動く。動いている。その運動を追いかけていったとき、存在のすべてと関わりあっているとは考えがたい。あくまでも考えがたいだけで、実際にそうであるかどうかの保証はない。保証はないが、存在の運動を具に観察していったとき、つまりは、存在の関係性が網の目のようにしてある姿を思い浮かべて考えたとき、しかし、それは所詮、認識上にある一個の平面に過ぎないのではないか。存在における張り巡らされた網の目が一個の平面、いや、立体にある。そうした立体を思い描いて、存在のあり方を認識しようとしたとき、その認識は一個に点に過ぎない。かつ、それはどこまで運動を包摂しているだろうか。存在そのもののあり方がその運動としてあるわけで、それはあるがままにある。そのあるがままを把握したいと考えても、思い浮かべることはその限界にある。認識上の立体は厳密には存在と整合的ではない。結局私たちが知り得ることができることは認識内存在に過ぎないのではないか。それは認識機能に依存した認識を持つことを意味する。その機能に依存した認識主観性をもとにした認識が存在とどこまで整合的であるか、それは定かではない。私たちが知っている存在のあり方とは私たちの機能により規定され閉ざされた認識なのではないか。認識とは常にその閉鎖系のことではないか。存在の関係性について、そのリアルタイムを捉えることができない以上、存在の関係性の認識は概念化されたシステムとして実在するより他はない。概念化されたシステムが存在のリアルタイムに適応できるのは、存在がシステムとして実在することの証左である。同じ三角ではない。いくつもの三角があることが存在のシステムのあり方を示している。めぐる宇宙の法則は絶対反復ではない。差異を含んだ反復であり、それはいくつもの楕円があることと同じ意味である。