その258

 論理が捉える存在の仕方について、その運動はその関係にない。論理が捉えた存在の仕方とはそのシシテムであり、その運動は別の話となる。システムはそれでも動く。動かないシステムは存在しない。いかに動くかの流れがシステムとして捉えられたのだ。細部は放っておくことでシステムとして、存在の流れが実在する。それは精神のうちにあることであり、実質的には、その構造はシステムの外にある。論理的に話がなされたとき、それがそのままその存在のすべてを物語るのではない。では、何が捉えられ、捉えられていないのか。システムとして捉えられる運動がある以前に、その変容が続いていく運動がある。あらゆる瞬間は異なっている。すべての違いのなかに見出されるシステムとは何か。それは構造だが、変わりゆく構造だ。変わりゆく構造がなぜ論理で捉えられ、さまざまにあてはまるのか。

 同一ではないはずの存在の移ろいに対して、それでもあてはめることのできる概観がある。存在の実質においてあるのではなく、私たちの精神のうちにある。いや、私たちの精神のうちにだけあるわけではない。存在するものごとの実質において、概形がある。おおよその同一さがある。おおよそ同一であるものは完全に同一ではない。完全に同一であることが実在することはない。おおよそ同一であるとはどんな意味か。それはりんごが何度もりんごとして実在することではないか。あらゆるりんごは異なるが、おおよそ同一のりんごである。

 いくつもの個別性により埋め尽くされている存在のうちに、単独の何か、つまり、それだけしかなく、おおよそ同一である他を持たない何かが実在することはあるのか。一切のコピーを持たない何かが確かに実在することはあるのか。すべては異なっているが、相互に類似した何かがある。何一つとして類似しない、そのことだけが、この存在のうちで極めて純粋にただ一個、実在することはあるのか。いくつもあるりんごではない。それはりんごだが、存在のどこを探しても類似したものが見当たらない。そういったりんごのような何かがあると考えられるのか。この世にただひとつだけのりんごがあるのではなく、りんごといった実在がただひとつだけあることがありうるのか。あらゆる類似性を拒絶した何か。それは存在可能だろうか。