その257

 認識は言語に置き換わることで、その対象となったこととどこまで整合的か。言語の限界を超えることのできない認識は言語内存在である。存在は言語を超えた姿であるはずであり、存在はすべからく、その本来においては言語外存在である。言語のうちに閉じられた存在は存在しない。言語に置き換わった存在は、その言語の機能においては、ある完全さにある。それは論理的に完結していることもあるだろうが、それゆえに、対象となった存在がそのように完結しているのではない。言語が論理的に構築されるからといって、そのまま存在が論理的にあるわけではない。存在は言語の論理に整合的な側面があるかもしれないが、それですべてではない。言語の論理性は存在において部分的に真である。言語を論理的に構築したとき、そのすべてが存在に適合することがあるとしても、それが対象のすべてを捉えたのではないとき、言語の論理に沿った存在の仕方とは何か。存在が言語内にあるときの存在にはどんな意味があるのか。そもそもにおいて、存在は言語の論理にのっとって実在するのではない。存在が言語の論理に適合する性質があるのは、偶然ではないか。言語には論理が発生し、その論理の枠組みを用いることで、存在の仕方を表すことができる。存在の仕方を表すために言語の論理があるのではない。言語の論理に従って存在ができあがっているのではない。存在の仕方のうちで言語の論理にそう部分がある。それは偶然ではないか。

 言語のあるなしに関わらず、存在するものはそう存在する。そう存在する存在が言語の論理により、新たに構築されることはある。そのようにしてあるが、それは存在が言語の論理にそった形で構築されるようできているのではない。言語で論理を作り上げていったとき、偶然にもそう部分があるといったほうが現実的なのではないか。