その202

 考えていることが存在の流れに沿っていないことがないか。視覚で捉えた存在のことを考えるなら、存在の流れのうちに思考があると考えられるが、視覚で捉えていることと完全に異なったことを考えることが頻繁にある。そのとき、考えている主体である自己は存在の流れのうちにあるものの、そのうちにある思考は存在の流れに沿っていないことになる。

 先にあるのは自己の生存である。自己の生存はその外部との連続にある。存在できるのは自己の外部が自己に適していることが原因である。実存的に自己の外部は必須の条件となるが、自己の根拠といわれもする思考する自己は、実際に思考するときにおいてその外部と不連続にある。思考の運動は自己のうちに閉じているようでいて、しかし、思考の内容は存在との関わりにある。関わりにあるとしても、その思考がなされているときにその場と同期するのではないことが多い。その場のことを考えるときがあれば、その場と関係ないことを考えることがある。

 いかなる思考も存在の流れに含まれていて、考えるべくして考えていると捉えるなら、一切の思考な流れのうちにある。視覚では別の状況を捉えていても、思考は存在の流れに従っていると考えても問題はないのかもしれない。思考内容はそれまでに経験したことやそれまでの記憶が原因となっているのだから、存在の流れに沿っているということもできる。

 存在の流れに沿っていないことなどひとつもないのか。そう考えるなら、存在のあり方がカオスの様相を呈することになる。つまり、存在の流れ自体が不連続で、捉えようのない姿であることを意味する。そのありのままを想起するならすべては連続していると捉えてもいいのかもしれないが、いかようにも私たちは認識するしかないのであり、認識の存在を認めてしまうことはつまり、存在が不連続にある。少なくとも、そういった現実が存在の流れのうちに私たちの精神の存在を通して実在していると考えられる。

 私たちの存在は存在の一部であることはどうやっても否定できないことであり、いかに私たちが実存しているかを捉えることは存在がいかにあるかの部分的な認識として欠かすことができない。私たち自身について知ることなく、存在について知ることができない。存在の外部がしきりに精査され、そのこと自体になんら問題はないが、存在は私たちによって認識されることでその在り方がはっきりとするのであれば、認識そのもののあり方を理解することが求められる。私たちの認識それ自体は存在にとっていかなる現象か。私たちが存在を認識することで存在にどんな変化が表れているのか。