その228

 知っていることがすべて言葉になっているのではない。言葉になっていないくても、知っていることがある。知っているとは何を意味するのか。どういった状況のことを知っていると言えるのか。言葉をまったく知らないからといって、生きていられないことはない。生きていることができるなら、知っていることがいくつもあるのか。言葉になっていなくても知っていることがいくつもあるから、生きていられるのか。

 言葉を知ることでむしろ見えなくなることがある。かりにまったく言葉を知らないまま生きていれば、どんな感覚なのだろうか。言葉を知っている方が高等かどうかは安易に決められない。言葉を知らずとも生きていられるなら、その方が高等かもしれないし、そもそも、言葉があることが比較する精神を生んでいる可能性がある。

 もっとも、言葉はなくとも感情はあるだろうから、比較する行為は実在する可能性がある。感情が行為の原因であるとき、言葉とは関係なく、行為が行われる可能性がある。では、その行為は何を知っているのか。ああすれば、死んでしまうぐらいのことは、その行為自体が知っているのか。いや、感情や理性など、脳髄の反応としての知識である。言葉がなくとも、抑制される行為はいくらでもある。言葉がなくても、人は考えることができるのではないか。記号をもちいた思考はできないかもしれない。言葉は記号的であり、記号を用いて複雑な考えを行っていく。記号を超越したところに存在の実存があるのではないか。表層を乗り越えたところに、実際の存在があるのではないか。