その170

 存在するものがありのままあることに対して、その認識はどこまで肉迫しているのか。完全に同一になるのとはない。存在そのものそれ自体が語っているすべてを認識することが不可能であるとき、存在と私たちのあいだには埋めることのできない距離があり、見ているものの姿は見ているものそれ自体ではなく、見ているものそれ自体の存在は永遠に見出せない。見ることで知ることができるのは、見る主体からの見え方であり、そもそもにおいて、見ているものそれ自体の素の姿が見えるのを探し求めているのではない。初めの設定から不可能であることを基に、翻って、対象と私たちのあいだにある存在の関係性について私たちは知るのであり、知るとはあくまでも私たちの眼差しについて知るのである。私たちが見ているものは私たちによる見え方の確認行為でもある。私たちをその基軸としていかに見えるか。存在はあるがままあるはずだが、それが見えることは永遠にない。存在は私たちにより与えられた見え方により一個の形質として浮かび上がる。浮かび上がった形質を幻影とするか、事実とするか。そういうものだといえばそれまでで、切り取られた存在の見え方は幻影であり、かつ事実でもある。

 光に照らしだされることで見える対象は光のあり方の支配下にある。光の一切がないとき、存在はその色彩を持たない姿になる。それでも、一個の対象において、その底に色彩的な差異をもつが、光に照らされないことでそことは知られない。知られないが、存在の一切が均一の質であるというのではないことは言うまでもないが、原初的に、均一でないことを知ることができているのは、光があるからだ。経験的に知っていることで、光の一切がないときにでも、存在には質的な差異があることを知っている。かりに、光の一切のない時空に存在があったなら、その色彩について知ることがなかった。知ることとなった原因があることで知ることができたとき、知ることのできる原因がないことでいまだ知られていないことがある可能性がある。何を私たちはその原因がないから知らないのか。光が差しこんで、知ることの原因となるように、他の何かが私たちに影響を及ぼすことをしないことで、私たちは何を一切知ることなく実在しているのか。