その176

 物質だけがあることそれ自体は完結しない現象ではないか。物質とは何かと問われたときに、ただそこにりんごがあるだけのことか。運動するりんごを構成するための意味があると考えられる。物質は、意味に貫かれている。意味が物質をもたらしているのではないか。存在の最終根拠として実在するのが意味ではないか。意味なくして何も実在することはない。何かが存在するのは意味があるからで、私たちが存在するから意味があるのではない。私たちとはまったく関係のないところであるのが意味ともいえる。むろん、私たちにとっての意味もあるが、私たちがいようといまいと意味はある。意味があるから、地球は実在するのだろうし、意味があるから、万物がある。万物のうちの一形態である私たちは、意味の広がりのうちにある。意味に含まれた実在である私たちは意味を生産することがあれば、意味を消費することがある。意味はその運動により、姿をかえる。形質をもたない意味もある。まったく何もないといった、無はそれが実在すると考えられるか。つまり、存在の広がりにおいて、あらゆる存在を否定し切る時刻が実在するか。時刻の一切が実在しない場はそもそもにおいて実在不可能である。あらゆる場の喪失が起こるとき、何一つとして実在しない現象が起こる可能性があるが、しかしその後いつしか何かが生じるなら、それは意味によると考えられる。一切の意味の消失はあり得るのか。