その172

 何かの存在の側に立つことで展開される認識は、その完成においてさらなる展開がある。運動する存在はつねに未完であるはずで、存在は決して完成に向けて動いているのではない。つねに未完であるといった表現に問題がある。完成された状況設定それ自体が実在しないとき、未完とは言い換えるなら端的に変化のこと表現したほうが妥当ではないか。

 存在とは変化のことであり、いかなる変化が起こっているか。存在とはつまり、絶えることのない変化それ自体であり、どんな瞬間もその停止を持つことはない。蠢き続ける存在を貫いているのは意味であり、意味とは言葉があるから実在するのではない。言葉のなくとも、何かがあればそれは意味をもつ。意味をもつことで運動する何かは停止することがない。意味の変容が存在のあり方を決定づけている。存在が変化していることとはそのまま意味が変化していることの現れである。

 あらゆる幻影を排すなら、意味だけが残る。物質のすべてが消え去ったとしても意味だけは残るのではないか。存在は意味だけとなっても、実在していると認められるのではないか。現状において存在する物質の全容を考えたとき、非物質的な意味がその物質の構成要因になっていることが考えられる。運動する物質は物質内部だけが動因になっているのではない。物質外部からの影響化にもあるとき、物質外部にある物質との関連にもありつつ、非物質的な実在が物質の動因として関わりを持っているのではないか。存在の意味が関わりを持っているのではないか。物質が動くために駆り立てる意味が物質の運動の最終根拠としてあるのではないか。物質が運動するためには、余白がいる。開いた空間が実在しない限り変化していく先がない。それはまだないが、あり得るための空間的余白が非物質的な意味として実在すると考えられないか。物質は意味のもとにある。意味を捨て去り、また、新しい意味を得るようにして運動する物質は絶えず意味を模索しているのではないか。物質は非物質的な意味の広がりのなかにあるのではないか。