その6

 水に茶葉を入れないとお茶にはならない。お茶の存在には水と茶葉の関係がいる。水と茶葉の関係は世界を限定する。水を限定するのが茶葉であり、茶葉に限定された水は水ではない。茶葉で限定された水はお茶でしかない。お茶でしかないものはお茶であることで世界を限定し、その他を排斥する。何かがお茶であり、水であるとき、何もが世界を個別に限定する。水やお茶などからできた世界は水であるための関係性やお茶であるための関係性により構築される。

 存在とは、水が水であるための関係性により出来上がっており、関係性を持たないお茶は存在し得ない。お茶の関係性とは、お茶の内部の関係性であり、お茶の外部との関係性である。お茶がお茶であるために必要な関係性は世界の全体との関係にはない。お茶にとっては必要のないことが世界にはある。世界は存在すれば世界である。いかにあるかは問われない。存在すればいい。

 存在する何もが等しく関係を持っているのではない。水は水であり、お茶はお茶である。お茶になった水は水ではない。水との関わりを持ったことがお茶を発生させたのだが、お茶になった水は水ではない。水の要素がお茶にはあるが、茶葉には水の要素はない。水と関わりを持たない茶葉はお茶にはならない。

 存在とは関係性のあり方が問われている。私たちが知ることのできる水は、水であることについてである。水であることとは何か。お茶ではないことである。土ではないことである。むしろ、世界内に存在する何もが一連の繋がりにあるのではない。同一の地平にある万物はそれぞれの領域をもち、つねづね改まっている。つねづね新しくなる関係性が非関係性を内包しているのではないか。関係を持とうと運動することのなかに関係を持とうとせず、断ち切られた姿がある。新しくなってしまった世界は関係性を取り戻せない。永遠に結ばれることのない非関係性が一個の世界にあって当然ではないか。