その5

 停止ではない運動である時間を取り出すことは不可能である。運動を運動のまま取り出しても、私たちは認識することはできない。世界とは認識のことであるといった立場に立つとき、世界が認識以上にある事実を私たちはどうすべきなのか。知らないことが存在する事実を知っていない私たちは世界を認識の内に閉ざしている。認識できないことを含んだのが世界であるとき、私たちは世界の全容について知り得ないのだから、私たちは世界について断片的に知っているに過ぎない。世界がどんなものであるか、まるで知らないのではないか。知っていることがわずかでしかない可能性から逃れ得ないとき、私たちは世界といった呼称と関係をつなぐことが可能か。世界は確かにあるはずだが、そのいかなるかを永遠に知り得ないのなら、私たちにとって世界は存在しないことにしかならない。世界とはそれが知られることで存在する。いかなるものであるかを知らない世界は私たちにとって、存在しない。私たちは私たちにとって存在するものを知っている。それは世界ではない。できごとの断片でしかない。世界が存在することを措定したときに明らかになるのが私たちの断片的な実存性ではないか。